私の家は、国道からちょっと山手に入った所で、元の県立病院の横の方、隣りは外人の経営している幼稚園でした。その隣りは不動産会社だったと思います。
私の夫は海軍軍人で、二十年四月九日に戦死(岩手県沖)。 山田湾が海軍基地で、五、六隻の掃海艇がおりました。 主人が戦死後、実家に戻っていたところ、五月八日には実父が病死、実母と私の子供(一才九ヵ月)の三人暮らしになりました。 七月に入って、たった一人の子供が案じられて、新城駅の近くの六丁間を借りて疎開しておりました。ところが新聞で、家を留守にしている者には配給をとめるという知らせを見て、たしか七月二十五日に家に戻りました。
その後のことです。務めの帰り、疎開先の新城までカヤを取りにいって、夜、家の近くまできましたら、飛行機の爆音とともにボアーンという音がして、パアーッと、まるで昼のような明りを目に受けてビックリしました。ああ、これが照明弾というものかしら、きっと写真でも写していったのだろうと急いで家に入り、母に話しました。
母は助産婦として生活し、私は日通の公用課に務めていたのです。七月二十八日夜、なんとなくむし暑い九時ちょっと過ぎだったと思います。いつまた空襲があるか知れない、早目にねようと仕度をしていたら空襲のサイレン。すぐ幼い子供を背に、保存食の入ったリックサックとフトン一枚を持って、母と不動産会社の地下へと急ぎました。地下の広さは四丁半か、せいぜい六丁ぐらいで、だいぶ人数も集まって地下室一杯になり、ラジオをかけて聞いているうちに、仙台方面よりB2が北々上、十機とも三十機ともいっており、なんとなくこれまでのとはちがって、今回のは安心できない感じでした。
私はこんな狭い、しかも大分人もおり、万一地上が火の海になれば、地下室では人がむし焼きにされるばかりだからと出ることにしました。私のことばを聞いていた人たちもまた、それぞれ地下室をでて、広い事務をとる部屋の方へでました。そして、母に市立女学校の建っている田んぽの方へ逃げましょうと裏口へまわろうとしたら、組長さんが、「柿崎さん、まだまだ火の手はこっちへはこない、まだ早い」という。その一言で、母は一しゅん足をとめました。でも私は、どんなことがあっても残されたこの子供だけは助けねば、守らねばと思って、「お母さん、早く早く」と叫んでせまい廊下にでたとたん、物すごい音響と共に、バラバラ、グラグラと物が落ちる音がして、あっという間もなく狭い廊下は火の海となって、どうすることもできなくなってしまいました。
ともかく子供を背中からおろして母に渡し、私は二階に上がって見ました。そこも火が一杯でメラメラと燃えて、出ることは不可能でした。下におりて、広い部屋の隣りの会議室にもいってみました。でも、そこも窓のガラスも真赤になって、バチバチ、ピンピンとこわれ、煙りがどんどん入ってきました。母は身の危険をかえりみず、入口のシャッターを夢中で巻こうとしましたが、いくらがんばっても巻くことはできず、やめました。男の人が一人手伝ってくれましたが、煙りもどんどん入ってきて次第に苦しくなり、私はわが子にだけでもよい空気をと思い、机の引出しなど抜いて吸わせようとしましたが、だいていた幼い子供はもうだめでした。母は、父が生前、死ぬ時は親子一緒にといった言葉を思い出してか、「すみ子ちゃん、お父さんとおじいちゃんの側に行こうね」と、持っていたフトンを三人でかぶりました。その時、幼稚園の先生二人 (稲田さん、藤林さん)が歌う賛美歌の声が静かに流れてきて、私は深い穴に入ってゆく感じでした。
その日の午後十一時ごろ、寒いのと痛いのとで気がつき、すぐ母とわが子のことを眼で探しました。側にいた中年の人と少女が、「ああ、気がついた、よかったよかった」といってくれました。私は広い場所で、たくさんの人が寝ているのがわかって、ビックリしました。ここはどこだろう。 知っている人はいないかしらと思って「ここはどこですか?」と聞きましたら、「公会堂(現スポーツ会館)だよ」とのこと。 母と子供のことを聞きましたが知らないという。
ああ、私は助かったのに母とわが子はどこ、もっとひどいケガでもしているのかしらと思いました。私が着ているものはセル一枚とセルのモンペ。 逃げる時着ていたのと違うのが変でした。 肌につけていたお守りもありません。 お守りには、万一の時にと思ってお金三十円入れておいたのに。 お守りは私の身がわりに……。 あのフトンとリックと、はいていたゴム長が側にありました。 ゴム長がなんともないのに、なぜ両足に火傷したのか、今でも謎です。顔はひたいと耳、ほかに右腕。眼をあっちこっちに向けて知ってる人がいないか探しました。ようやく私の裏通りの原子医院の看護婦さんの武田さんが見つかりました。 武田さんも私をみつけて、「よかった、よかった、元気を出して」といってくれましたが、母とわが子の様子はやはり知りませんでした。
頭をおこすとクラクラと目がまわり、起きあがることができません。そのうちに親類の人たちもきてくれて、なんにも心配しないで元気をだせといって、母と子のことを聞いても、大丈夫大丈夫というばかりです。私をびっくりさせまい気持ちだったのでしょう。 職場の人たちもきてくれて元気づけて下さいました。眼がまわるけれどトイレに行きたくて、やっとのことで起きて行きましたら、一人の警察官が私を見るなり、「ああ、助かったか」という。その人が助けてくださったというので、お礼をいって、母と子供のことを聞いてみました。「気の毒に、二人ともだめだった、まだまだたくさんの人があそこで亡くなったんだよ」と聞かされて、私は腰から力がぬけて、立っていることもできずに、ヘナヘナとその場に座ってしまいました。
ああ、やっぱり、やっぱり……とうとう私は一人になった、夫が残してくれた忘れ形見を……ああ、どうしよう、どうしようと、声もでなくなり、 やっとの思いで自分の寝ていた場所にもどりましたが、どういう訳か涙も出ませんでした。昨夜のことをとぎれとぎれに思い出し、まるで夢のようでした。 抱いていたわが子のぬくもり、そして重味が私の腕の中にあるのに、ああ、たった一才と何ヵ月の生命だったのか、父と暮らしたたったの五ヵ月、その父にも四月には戦死され、額に入れてある写真を持っては、お父ちゃまお父ちゃまと無心に呼んでいたあの子、昨夜はねむるようにして腕の中にいてくれたのが、せめてもの私の心の安らぎでした。 母とともに一緒に死ぬなんて考えても見ませんでした。
公会堂には二、三日おりましたが食欲がないままに、トラックで藤崎の福井医院に運ばれました。その後も空襲はありましたが、私はどうでもいい、死んでもいいという思いで一杯でした。二ヵ月後退院し、一応新城へ行きましたら、そこに置いた品物は、私ども一家が死んでしまったということで、疎開先の人々が持っていってしまって何一つとしてありませんでした。
ともかく子供のお骨を油川の寺にあずかっていたので、痛む足をひきずって歩いていきました。長い間だれにも抱かれず、白木の箱におさまって広い位牌堂にいたわが子を抱きしめて、はじめて私は大声で泣き、灰色のお骨を両手にすくって、指と指の間から音もなくこぼれるお骨に、純子ちゃん、ごめんね、こんな姿にさせて、お母さんに力がなくて、 守れなかった、苦しかったろうネ。お父ちゃまの側にいってね……と。 生前、おんぶされて、空とぶ飛行機を見ては、お母ちゃま、日本の……と聞く子でした。早く死ぬ子は生前利はつだときかされたことがありますが、わが子のおりおりの言葉がはっきり聞こえてくるようです。
父も母も、夫もわが子も、肉親をすべて亡くした私は一体どうしたらよいのか。戦後三十八年たっても幼い子は幼いままの面影しかなく、その後、夫の戦死の公報がきても、両足が悪いため座ることさえできずに行けませんでした。そのためか夫の戦死の一時金も、青森での戦災給与金の一銭すら、いまだにもらっておりません。 夫の実家は静岡、戦災給与金は静岡へ送られている) また、あの時建物から逃げたとしても途中の安全はどうなっていたことか。 母と子の遺骨があったのは不幸中の幸いだったということでしょう。
私は今でも戦争のテレビは見ません。胸が締めつけられるようで、あの当時のことが思い出されてどうすることもできませんから。私以上もっともっと不幸な人があったでしょう。一家全部死亡した方もあるでしょうが、なぜ私たちも軍人のように国家の保証がなかったのでしょう。トラックで福井病院にいった時は入院室が満員で旅館にとまり、宿賃から医者への支払い全部実費でした。一銭も身につけてなかった私は、落とした貯金通帖が親切な人のおかげで手元に戻り、やっと支払いしました。両足は黄りんがついたため骨がみえるほど肉がくさり、座ることも歩こともできずに、腹ばって歩きました。
それからの苦労はとうてい言葉でいいあらわせないほどでした。現在でもすごいものです。38年間、私は父母、兄の位牌を守って暮らしています。
(「次代への証言」第2集 青森空襲を記録する会 昭和57年)