14才の夏でした。あの晩夕飯をすまし、早めに寝ようとしたときに警戒警報がなりました。背中がぞくぞくとし身仕度もおもうようにゆきません。やがて空襲警報、まもなく照明弾がかがやき、灯火管制の街をてらしだしました。空からウワンウワンというB29の音がせまってきました。その音が真上にきたとき、焼夷弾がバラバラとふってきて、あちこちから火の手があがりました。
B29は、これを目標にしたかのように、集中豪雨のように焼夷弾をおとします。県庁に火がつきました。母校の新町国民学校からも火の手があがりました。現在のみちのく銀行古川支店と国道をはさんだむかいかどにあったわたしの家(木村金物店)は、さいわい直撃がなかったので、しばらく近所のようすをみることができました。
それもつかのま、だんだん火がせまってきて、伯母と妹の3人でちかくにあった防空壕にはしりこみました。なかにいた警防団に「遅い!」とどなられながらもなんとかいれてもらいました。 奥にそうとうの数の人がうずくまっているのが、気配でわかります。防空壕といっても、地面に穴をほり、板でかこい、土をかぶせただけのものですから、爆音も焼夷弾のふる音もきこえてきます。そのたび防空頭巾のうえから耳をふさぎます。このとき、はじめて死ぬかもしれないという恐ろしさをかんじました。
おくのほうから赤ちゃんの泣き声がきこえ、母親が一生懸命なだめております。「静かにしろ。飛行機サ聞けるベナ」 さきほどの警防団員がどなります。心細くなると小用ががまんできなくなりました。警防団員にたのむと「なんぼウルセワラシダバ。今でれば死ぬンデ。それでもエンダラでろ。もどってくるな」とどなりながら、扉をあけてくれました。
外にでると火の海。夜店通りの角がもえ、私の家も真っ赤になっています。あの部屋が、あの人形がもえているとおもうと涙があふれてきました。むかいの交番にはしりこみました。ああ県庁の方は国道の両側がさかんにもえ、 道路に火がはいまわっています。髪をふりみだしている人、防空頭巾に火のついたままはしってくる人、力つきてたおれる人、助けたくてもどうにもなりません。火の粉が雨のようにふっています。もう、ここにはいられません。
その時でした。さっきまでいた防空壕に焼夷弾が直撃しました。一瞬ものすごい勢いで火がふきだしました。 扉からは内はだれもでてきません。泣いていた赤ちゃんは、母親は、みんな死んだのでしょうか。警防団にどなられ我慢をしていたら、みんなと運命をともにしていたことでしょう。
跨線橋をわたって滝内の知りあいに避難することはまえからきめていました。3人手をとって熱風と火の粉のなかをはしりました。跨線橋でふりかえると、街は地獄の火の海でした。生まれそだった街、馬ソリにとびのって叱られた国道、おでん屋のオドがいた中町、ヤッチャ飴をうりにきた夜店通り。舞台にねころんで活動写真をみた街、「空き家敷」で遊んだ街、ハイカラなお菓子をたべた森永レストラン、服をかってもらった松木屋、先生とあそんだ長島幼稚園、知事の官舎、村上の医者様の家、薬屋のほてい堂、みんな火のなかです。
これが空襲というものでしょうか。むしょうに涙がこぼれます。 熱い、のどがかわく、はしらなければならない。ようやく跨線橋をこえたとき、防空頭巾に火がつき、煙をあげていました。とっさにちかくの防火用水をくみ、頭からあびました。水のにおいがして、唇をつたわる水はヌルヌルしていました。
千刈国民学校がもえています。廊下の柱がいっせいにたおれ、校舎がくずれおちました。田んぼのなかをとおり、畦をふみはずしずぶ濡れになりながらも滝内につくことができました。 とたんに疲れと安心からうごけなくなり、朝までわかりませんでした。
翌朝早く、焼け跡にむかいました。跨線橋にきたとき、トボトボあるいてくる人がいます。 つかれきった父でした。「生きててよかった。よかった。よかった」とだきしめました。 「みんな防空壕で死んだときいて探しにきたんだ。 昨夜は最後まで火をけそうとしたがだめだった。それで大野ににげた」「これから伯父をさがそう」 と焼け跡にもどりました。死体にかぶせていた熱いトタンをめくってあるきました。手が赤くなります。やっと探し当てた伯父は焼けこげてちいさくなっていました。知り合いのもってきてくれたきれいなリンゴ箱にいれて、三内に埋葬しました。なにもおそなえするものがありませんでした。
無差別な焼夷弾爆撃の前にはなすすべもなく、たくさんの犠牲者をだしながら、逃げまどうばかりでした。 友達や先生、たくさんの子供たちも犠牲になりました。たぶん、もっと長生きして、やりたいことがいっぱいあったとおもいます。どんなに残念だったことでしょう。
(「次代への証言」 第一集 青森空襲を記録する会 1981年 より)