(1)
本格的な青森市の空襲は昭和20(1945)年7月14日、15日の2日間からはじまった。この日、尻屋崎より南東110マイルの太平洋上にいた航空母艦エセックス、ランドロフなどから発進した艦載機は、津軽海峡をめざした。攻撃の第一目標は津軽海峡や陸奥湾を航行する青函連絡船であった。青函連絡船は、北海道より本州の工業地帯に石炭をはじめとする、物資を輸送する最大の動脈であった。この壊滅をねらったのである。
青森港の沖合には、飛鸞丸、翔鳳丸、第二青函丸、第六青函丸が待機していた。最初に攻撃をうけたのは、第二青函丸で、朝の5時過ぎ、夏泊半島の大島沖を航行中に機銃掃射をあびた。この攻撃で船長をはじめ四人の死者と負傷者をだしたが、なんとか堤川沖にたどりついた。負傷者と死者を鉄道病院などに収容、ほかの連絡船から人員を補充していたときに、午後2時空襲警報でおおいそぎで錨をあげた。ほとんど航行不能状態であった第二青函丸は、たちまち攻撃にさらされ、午後3時半沈没した。
堤川沖にいた第六青函丸は空襲警報とともに真っ先に錨をあげ野内に向かった。この連絡船は、海軍の兵士が12人乗っていて、25ミリ機関砲二丁などそなえていたので、艦載機の攻撃をうけ、ただちに戦闘体制にはいったが、ほとんど反撃もできないまま逃げまわった。ようやく野内沖にたどりつき、みずから船を座礁させるため、午後2時頃連絡船の避難場所にきめられていた、バッコノ崎に突入した。座礁した第六青函丸はロケット弾を打ちこまれ、まもなく炎上した。
深夜函館を出航した飛鸞丸は、青森港に到着すると、函館が攻撃され青函連絡船も炎上しているという報告をうけた。ただちに沖合で待機することとなり、堤川沖に停泊した。飛鸞丸には14才になったばかりの大沼養成所の実習生が53名最初の研修として乗船していた。艦載機の攻撃には逃げまわるしかなかった。反撃がないと知って、超低空での攻撃がくりかえされ、午後3時40分青森の沖で沈没した。
おなじく深夜函館を出航した翔鳳丸は、早朝に乗客を青森桟橋におろすと、ほかの連絡船とおなじく堤川沖にいたが空襲ではジグザク航行で爆弾をかわすしかなかった。備えつけられていた機銃の反撃がなくなると、艦載機は超低空で飛んできては、爆弾をおとし機銃掃射をくりかえした。こうして午後4時すこしまえに、青森沖で沈没した。
二日間の空襲で、函館沖や津軽海峡にいたのもふくめ、13隻の青函連絡船は347名の死者をだして全滅した。青森港の沖で沈没した4隻でも117名の犠牲者をだしたのであった。
(2)
この二日間の空襲は、青函連絡船ばかりではなかった。第二の攻撃目標は、飛行場を中心とした軍事施設の破壊であった。県内では三沢、八戸の飛行場、大湊の軍港などが激しい爆弾の雨にさらされた。青森市では油川にあった青森飛行場が空襲され、三機の飛行機が破壊や炎上し、滑走路は爆弾の穴で使用できなくなった。艦載機は、これら軍事施設ばかりでなく、地上に動くものがあれば、無差別にはげしい機銃掃射をあびせた。なかには味方の飛行機が飛んできたとおもい、歓声をあげ万歳をさけんだとき、攻撃されたという人もいた。市民のおおくは、押し入れに畳をたててかくれ、飛行機の音、爆弾の音、機銃掃射の音に、生きた心地もなく耳をすませていた。
海岸近くにいた人たちは、青函連絡船が攻撃されるのを、物陰にかくれながらみていた。直撃をうけて傾き、乗組員が海に飛びこむのが、はっきりみえたがどうすることもできな浮遊物につかまったり、泳いだりしているのだがそのうえ艦載機が機銃掃射しているので、助けにゆくこともできなかった。敵機がさってから、ようやく救助の船がでていった。安方の魚市場は、死者、負傷者で埋まった。市民ははじめて空襲の怖さを知ったのであった。
(3)
青函連絡船全滅のなかで、とくに悲劇だったのは、青森港の沖で沈没した飛鸞丸であった。この船には、「函館船員養成所大沼分所」の実習生53人と教官3人が乗船していた。国鉄では、職員のおおくが招集され、人手がたりなくなっていたが、とくに船員の不足は深刻で、このため国民学校高等科を卒業したばかりの少年を動員し、即席の船員養成をおこなった。1945年(昭和20年)4月に入所したこの実習生は、航海科と機関科にわかれ、きびしい訓練の日々をすごした。
7月13日「乗船実習を行う」といわれて、その夜のうちに函館につき、翌未明の2時に飛鸞丸にのって函館を出港した。14才になったばかりの少年にとっては、はじめて乗る連絡船である。なかには家に連絡したいというものもいたが、秘密だとして厳重に禁止された。それでも嬉しい気持ちにはかわりなかった。船での食事にはしゃぎ、本物の連絡船にのった興奮が朝までつづいた。
夜があけて青森の沖合にはいると、様子はかわった。教官が「ただいま函館が攻撃されて、連絡船も炎上しているようである」としらせ、全員救命胴衣をつけて待機するようにと指示した実習生たちは三等船室に待機をさせられ、外のようすはわからなかった。15時すぎ、伝令がきて「本船は敵飛行機3機撃墜」と報告、みんなが万歳万歳とさけんでいるときに直撃弾にみまわれた。ものすごい振動、停船、停電、三等船室は真っ暗になった。やがて船は傾きはじめた。「みんな上がれ」の指示がでて、実習生たちは甲板にあがったが、そこはまたグラマンの機銃掃射のなかであった。事施設飛鸞丸は何発かの直撃弾をうけて、船の傾斜は50度ちかくになった。生徒たちを引率していた教官に、退船の命令がだされ、全員が海に飛びこむよう指示された。少年のことである。泳ぎに自信のない生徒、泣く生徒、手すりにつかまってようやくささえている生徒たちを2人の教官が引きあげては海にほうりこむのであった。 昇降口にいた生徒は自分を支えきれずそのまま船室に吸いこまれていった。飛鸞丸は15時40分に沈没した。
海に投げだされた生徒たちは、浮遊物につかまり浮いていたが、その上に機銃掃射があびせられた。身体が冷えてきて眠くなる。おたがい「死ぬな」と声をかけ合って救助をまった。もう太陽がかたむいていた。米軍機が飛びさるとようやく救助の船が一斉に青森の港からやってきた。身体が冷えきって一人で船にあがることはできなかった。青森の魚河岸にある水上交番に、救助された人たちがあつめられ、衣服をわたされたのだが、それは国防婦人会の人たちがもってきてくれた女物の着物であった。 実習生たちはその後、青森駅前の「陸奥館」にあつまった。
教官が「これから名前をよびあげます」とつぎつぎに名前生徒53人のなかで14人の名前がなかった。生徒たちは青函連絡船が全滅したので、函館に帰ることはできなかった。行方不明の同期生をさがすため、青森の桟橋にならべられていたのふたをあけてみたのであるが乗組船員や兵隊の遺体だけで同期生の姿はなかった。数日後、護衛艦「ちとせ」で、ようやく函館にかえったのであった。
飛鸞丸に乗船していたのは、乗組員、教官、 実習生を含めて154人、そのうち31人が亡くなり、14人が実習生で、実習生は1人をのぞき遺体の発見はできなかった。助かった実習生はその後青函連絡船の乗務などについたが、そのうち3人は、1954年(昭和29年)9月の洞爺丸事故で亡くなっている。(当時実習生であった葛西常利さんの「次代への証言」 への手記をもとにしたものです)