隣組は1940年(昭和15年)、町内会、部落会のしたの地域組織で、むこう三軒両隣、五軒から十軒を単位につくられた。
現在町会にある班のようなものであるが、食料や生活必需品の配給のほか、防空演習、動員、供出などの行政の実行機関としてもちいられた。
それは国策にそった末端の組織であったので、隣組長など役員はそっせんして、その仕事をするようもとめられた。防空演習は、空襲から建物などの被害をまもるためにおこなわれた演習で、隣組や町内単位、また職場や学校などで定期的に実施された。 ブリキ製のバケツに水をいれ、リレー式につぎつぎと手渡し消火するバケツリレーや、火叩きで火を消す演習などしたが、じっさいはなんの役にもたたなかった。
むしろ防空演習は、時局をわからせる啓蒙宣伝にねらいがあった。1943年(昭和18年)の「防空必携」では、「防空必勝の誓」として、「命を投げだして持ち場をまもる、最後まで戦いぬく、命令に服従する、力をあわせ防空にあたる」とかかれている。各家庭では、防火槽に水をたくわえておくこと、砂か土を用意しておくこと、筵、叭や、バケツ、火叩き、鳶口、柄杓、など用意することがきめられていた。防空演習にでないと、「非国民」と非難されることもあった。(「次代への証言 青森空襲」平成10年 青森空襲を記録する会 OCRで文字起こし)