(1)旧名簿に見る
戦後五十年早いもので、青森空襲戦災死者の五十回忌がめぐってきます。当会ではこれまでの犠牲者名簿を再編集することになり、多忙な事務局を「助けて、私が担当することになった。昭和五十八年七月発行の「次代への証言」第三集の戦災犠牲者・同遺族名簿にある、総数四百二十五名ほどに、遺族会と平和観音会からお借りした二つの名簿とを突き合わせ、犠牲者名の校正・遺族名そして住所の書きかえをし、ワープロに入力する。
戦後も五十年となると、遺族欄 に名を連ねていた方々にも、すでに他界されておられる人が多い。故人の長男も亡くなり、孫さんが遺族欄に名を載せておられる。また、一家で四人五人と死亡した家では、一人だけになった娘さんが、北海道や都内の嫁ぎ先で、肉親たちのお位牌を守っているケースもみられます。戦災で妻を失って再婚した主人が、このたびの名簿では死亡しており、再婚の妻が遺族となり、犠牲者との関係欄には、亡夫先妻と記入されており、先の名簿から十五年の間に遺家族の間に、大きな変動のあったことをしのばせます。
あわせて、遺族会事務局からの消息問い合わせに対して「戦災死者とは関係ない」「確かに犠牲者はあるが、そのままにしておいてほしい」「脱会をしたい」などの回答が、名簿のあちこちの頁に見られ、心が痛みます。また、住所欄にも変更が多い。旧市街地に住んでいた人々が、大野・桜川・佃・造道・石江方面の周辺部の新興住宅地へ転居したり、造道から新城へ移るなど、移動が激しい。加えて、市内の住居表示による新町名への変更もあります。住所については、今回できるだけ小字名まで記載するよう心がけた。
次に昭和五十五年以降に、遺族会と平和観音会で受け付けたものを、当初の名簿と照合して、五十一名を別に収録した。その内十八名は遺族が不明、一人は三上で名前不詳の女性です。当会が空襲展会場で受け付けたものや、寄せられた情報を整理して、七十三名を収録したが、内二十名は遺族名が不明です。
(2) 不詳者の遺族を捜して
毎年の空襲展で掲示されている戦災死者名簿の終わりのところに、当会で追加記載したものがある。名字だけの人が目立つので、調査を始めた。「鎌田・当時鎌田味噌醤油店主」とあるのは、蜆貝町会六十年誌により、鎌田重吉氏と判明、遺族は本町四丁目に居住。「武田(母)と(子)が三人。長武田呉服店勤務とあるのは、武田貞助氏の書簡により、ご主人の名前は判明したが、家族名については、記載を断られたそうですので、遺族の意志を尊重して記載を見合わせした。ただ長女については、証言者の記憶により、かな書きで記載した。
「村田・博労町で一家全滅」とあるが、不明のままにしておかれないので、記事を寄せられた、堤一丁目蓮得寺の東義寿住職を訪ねた。みずからも女学校の娘さん二人を亡くされた東さんは、十一人ばかり死んだという防空壕の件については「他人の不幸は話したくない」と口を閉ざしたので、檀家の村田さんについて尋ねるのも遠慮した。村田さんご本人に尋ねるのに気がねして、鹿内町会長さんに伺うことにしたが、終戦時には兵役で青森に居なかったそうです。やむを得ず村田宅を探し当てて、訪問したが、知人に不幸があり、出かけて不在でした。
夕方に再度訪ねて、遺族の女性の方に会うことができた。「話したくない。帰ってください」と言われるものと思っていたところ、手がけていた切り花の仕事をやめて、座敷に上げていただいた。初対面ながら、私たちの会の活動をご存知のようで、空襲当時の家族の状況、その夜の父や兄の行動、家族八名が死亡した防空壕の悲劇、そして八名の遺体の埋葬などについて、淡々と語ってくれました。お茶の水女大生だったそうで、空襲下の東京で、動員の日々の間にも、次代の国民の教育者となるための勉強に励んでいたそうです。その話の中に、予想されたBSの空襲に対する当局の指導の悪さが、家族を殺したのだという怒りが現れていました。「実は会の名簿に一家全滅と書かれていたので、このように遺族の日に会えるとは思っていなかったのですが」と言うと「ある人から、空襲展へ行ったら、村田一家全滅と書かれている、と知らされていますが、私なりに雪の降るまで、三内霊園へお参りして花を供え、家でも供養しているので、八名の名前を書いてもらう気持ちにならないのです」とのお話でした。村田家の分については、一家全滅を八名死亡と訂正し、お名前は伏せ、遺族名はお話しいただいた方の名にすることにしました。
もう一人、「犠牲者名が山形で、新町協働社向かい山形屋おじいちゃん」とあるのを探しに回った。会員の西村氏の助言により、新町の奥崎米屋・和田額縁店と回り、本町一丁目蓮心寺入口の山形屋呉服店を訪ねた。空襲で亡くなったのは、塩野英雄さんで現店主塩野ふじさんの亡夫の兄さんと判明した。
(3)資料を求めて
これらの作業の間に、故工藤六三郎元青森警察署長の証言にある、戦災死者の検視調書を探し、青森検察庁調査課へ足を運んだ。担当者によると、「昭和二十三年に検事局から検察庁へと変っている。空襲関係の資料は見たことがない。あるいは、片岡の現法務局の所から移転したとき処分されたかもしれない。空襲直後は青森地裁と同居していたから、そちで尋ねてみたらどうか」とのことです。地裁の資料課へ行き、相当年配の人に用件を述べたら「青森空襲って、昭和何年のことでしたか」と聞かれた。「検事局と同居はしていたが、機構が全然違うのだから、そんな書類を預かるわけがない」別の職員は「ここは事件の書類を保管している。空襲って事件ですか」さらに「空襲の死者の名簿作りは、警察よりも、県庁なり市役所のやるべき仕事でなかったのか」と反問された。
空襲による死亡者の受け付けは、どのように扱われたのかと考え、青森市役所市民課に飯塚課長を訪ね、昭和二十年代に戸籍事務を担当した人で、生存している人はいないか尋ねたら「終戦後も戸籍事務は書記役の年配の人が細筆で書いていたものです。何分にも定年近い人ばかりやっていたから、生きている人はいないはずです。空襲で死んだとは、戸籍簿に書くわけがない。無理に探すとすれば、昭和二十年七月二十八日に死亡した人を探すのも一つの方法ですね」とのことで_nした。これとて遺家族の承諾なしではできないことでしょう。
「昭和四十七年の夏、市役所で「青森空襲の記録」を発行したとき、私も部外から体験談の取材に協力した。発行後にその本を見ると、七百人以上といわれた犠牲者の名簿が記載されていなかった。今回その辺の事情を探ぐろうとしたが、編集に当たった三人の内、松岡孝一、成田繁七両氏は他界され、残る淡谷悠蔵氏は高齢で入院していて、話を聞けそうもないとのことです。この業務を担当した佐藤信顕、工藤忠蔵両氏に聞こうとしたが、なぜか電話帳にない。市の広報公聴課と総務課へ行って尋ねたが、住所はかいもく不明とのことで、この方もストップです。
青森市町会連合会事務局に事情を話し、町会長名簿を一冊恵与いただき、市中心部の橋本から博労町・大町・良町の各町会長を訪ねたところ、どなたも兵役で青森にはいなかった・・・という人ばかりです。それでも良町の芝野町会長は、塩町の須藤五郎さんを紹介してくださった。心快く会ってくれたご主人も、弘前の部隊に入っていたということで、奥さまから、身内六人を良町小学校の防空壕で亡くしたお話を聞くことができ、遺族会名簿では遺族不明となっていた、須藤と小山家の遺族名と住所を確認記入できた。
各町内会の創立記念誌の空襲の項を見たらあるいは犠牲者名が書かれていないかと思って、再度町会連合会を訪ねてお願いしたら、蜆貝町と八甲町会の記念誌が二冊あった。調べてみたら、蜆貝町では土蔵の中で二名死亡とあるが、名前は伏せてあった。一般に戦中からの古い町会では、記念誌を発行したことがないということでした。
別角度から、各職域における殉職者名簿の作成を始めた。「青森県警察史」「青森市消防史」東奥日報と昭和時代」などから殉職者名を拾い出し、東奥日報社の四人、国鉄青森桟橋一人と野内油槽所の一人の計六人を今回新たに犠牲者名簿に書き加えた。
また、各学校別の犠牲者名簿にも着手し、市内の各学校へ旧中時代に空襲で死んだ、職員と生徒の氏名を知らせてほしいと書状を出した。旧青森一中については、北高同窓会倉谷芳彦氏から、すぐに励ましの言葉と共に、職員一名生徒六名の死亡者のコピーが届けられ、その内の三名は新たに名簿に記入された。たまたま、弘大医学部五十周年記念誌作成の担当の石戸谷氏と接渉があり、同氏を通じ、青森医専一年生能登山繁君の死亡が判明、これも名簿に記入した。
横山町の市立高女(県立中央高校)では、職員一名に生徒九名死亡と報告されているが、もう少し時間を与えてほしいと電話があった。他の青中(県立高女も含む)青商・青工からは二ヶ月近くなるのに音さたがない、卒業生にでも問い合わせているのでしょうか。ただ工業学校については、私の方で航空機科の生徒二名の氏名を関係者に尋ねて確認できた。
(4)忘れられてゆく空襲の記憶
東奥日報の「明鏡」欄を通して、名簿作成への協力を呼びかけたら、三件の電話があった。母と姉が名簿に載っているかという青柳一丁目の工藤しずえさんからの問い合わせがあった。訪問して聞いたところ、板柳町深味の実兄佐藤慶治氏は死去された由、再度訪ねて結局遺族名はそのままにしておくことになった。弘前市文京町の相馬さんからは、青森師範女子部の専攻科では、一人だけ生徒が死んでいるが、その生徒の名前が知りたいと全く逆の依頼があった。もう一人は浜町交番の巡査だったという人で、あの夜、久須志神社の方へ脱出できず、また引き返しえたった川や沼などに入って助かり、その後三日間は焼死体を三内に運ぶ作業をした。郷里から呼んだ同級生を空襲で死なせたので……と名前は明かしてくれなかった。あの地獄絵図を見たような体験を、人に話さずにいられなかったと思われます。「手余しするほど電話がかかってくるものと、恐れていた私は、たった三件の電話に拍子抜けした。空襲はもう過去のものになってしまったのだろうか。あれから五十年、機銃掃射や焼夷弾の恐怖が忘れられようとしている。子供や孫たちの身の上に再び戦争の嵐が吹かれないよう願うばかりです。
(5)今からでも遅くない名簿作り
ここ四、五年空襲関係の取材に歩き、空襲展の名簿の話になると「空襲の後で、市役所はなぜ積極的に犠牲者の名簿作りをしなかったのか」という疑問を多くの市民が投げかける。少なくとも二、三年後の慰霊祭を行った時点で、各町内会の組織を通じて調査したら、ほぼ完全なものがつかめたはずです。何しろ、配給制度というものがあったので、町会ではすべてを把握していたのですから。一面で今となってはとてもわからないだろうという声もある。しかし昭和六十年三月に4年がかりで作成した「八王子の空襲と戦災の記録」(八王子市教育委員会発行)の報告では、担当者が一軒一軒足で歩いて現地調査をした。その結果、八王子空襲による戦災死亡者は五百三十名を超えると推定されるに至った。その内四百九十名の方について、氏名あるいは被災事実が確認された。これまでの市の調査ではおよそ二百九十名の方が 戦災死没者名簿に記載されているに過ぎなかったので、今回の調査では、さらに二百名ほど判明したとある。五十四パーセントから九十二パーセントに記載率が一挙に高まったのです。要は行政側のやる気一つということになるのでしょう。
わが青森市の記載率は、これから学校関係が若干増えたとしても、七百三十七名中の五百五十名で七十四パーセントとまりです。高谷事務局長のせめて八割は載せたいという希望には、なかなか到達しそうもない。何の罪もなく戦争に巻き込まれ死んでいった、多くの青森市民の上に思いをはせるとき、不明のままで埋もれさせてよいものだろうか。いつの日か、行政と市民が力を合わせて、より完全な名簿を生み出すことを期待します。
こと空襲に関しては、話したくない、ふれられたくない遺家族。その気持ちが痛いほどわかるので、話を聞くにも遠慮する取材側。空襲関係の取材は、身も心も疲れる仕事です。それを励ましてくれる遺族や関係者のあたたかい言葉、それを支えにして私はがんばってきました。
今回の調査に当たっては、県立図書館の郷土資料の窓口、青森市町会連合会事務局、各町内会長の皆様に格別のご協力をいただきました。心から感謝申し上げます。また、問い合わせに対して、早速ご回答をくださった関係者の皆さまにも謝意を表します。(青森空襲の記録第14集 「次代への証言」平成6年7月発行より)