昭和20年6月、繰り下げられた師範学校女子部本科への入学式を終えて、浦町にあった校舎続きの寄宿舎へ入ったわたくしたちは、来る日も来る日も、暑い陽ざかりの下を農作業や疎開作業に明け暮れていた。忘れもしない7月28日、朝から暑い日だった。例のごとく、わたくしたちのクラスは、数人ずつの班に分かれて、班ごとに家政科の教具や理科の標本などを積んだ木車を押して、市外の細越国民学校(現・青森市栄山小)まで出かけ、すっかり疲れて帰り、おりからの土曜日に、やっと何日分もの汗を流して床へ入ったばかりだったのだがーー「ウーウー」またか!!!! 心地よい眠りをつんざくサイレンの音。 警戒警報なのだ。9時の消灯後、10分もたっていただろうか。意地悪いサイレンにしぶしぶ目をこすりながら、枕もとのリュックをせおい、綿入れの防空頭巾をかぶり、長ぐつをはいて身支度を整えた。
あのころは、もう教室での講義はほとんどなくなっていたから、枕もとに寄せてある非常持ち出しのリュックの中には、本よりも郷里から送られた乾飯の非常食や三角巾などの救急用具を入れた袋、それに少しの下着や小さい針箱など、最小限度の身のまわり品が入れられていた。床に入ってちょうどうとうとしたころの警報には、もう何遍も見舞われていたから、あの夜も、「またか」と軽い気持ちで起きだしたのだったが、いつものように部署につくまもなく、「ジャン ジャン ジャン ジャン」警鐘乱打、早くも遠くに敵機の爆音が――。
私と、予科生の妹たち2人の3人は、警報が鳴りだすと、手押しポンプをガタゴトと引っぱり出して、ご真影を守る係りだったが、その 「奉安殿守備」の部署につくいとまもなく、全寄宿舎生は、舎と女子附属国民学校との間の小路へ集合、舎監の下山田先生、藤原先生方や上級生の誘導で走りだした。国道へ出、堤橋へ向かってほんの100mぐらい走るころには、ハッキリ聞こえる爆音とともに、時おり、パッパッとまぶしいばかりにあたりが照らしだされた。敵機の照明弾である。次第に高まる爆音とざわめきの中を、ただもう夢中で走りつづけた。背中でおどるりュックの中からガシャンと針箱などがとび出した音をききながら、もうそれどころではない。 列にくっついていくのがやっとだった。
堤橋から筒井の方へ曲がって、寄宿舎から1Km余り、野脇の田んぼにあった青森医専の校庭にたどりつき、校庭の端に並べて掘られてあった防空壕へ数人ずつ分かれてはいった。わたくしたちのはいった防空壕の中には、ひどい泥水が、腰のあたりまでたまっていたが、その中にザブザブこぎ入ると、間もなく頭上をものすごいごう音のB29――瞬間、みんなは泥水に顔を伏せて前かがみになり、息をころして「もう、ダメか」と思った。壕に一緒の数人の中にはさいわい妹もいたので「一緒に死ねる、よかった」 そんな思いが頭をよぎったのをハッキリ覚えている。
通りすぎてホッとする間もなく、次々と上空をゆるがしていく爆撃機の音、遠く近く響きわたる炸裂音。合い間に、藤原先生が医専の校舎に入って話をきかされたらしく、女子師範のあたりから火の手が上がった模様とのこ街のほぼ中央に位していたわたくしたちの学校が焼夷弾の投下をまっ先に受けたのだろうか。
そのうち壕の入口が急に明るくなったと思ったら、校庭に弾が落とされ、医専の学生さんが直撃弾にやられたという。と、まもなく煙幕が一面にはり出して、壕の中にいると危い、という指令がだされた。 わたくしたちは、壕からとび出し、すぐ土手下の低くなっている田んぼのせきぶちにいっせいに伏せた。すると、今でもゾッとするあの青白い光にデラデラとわたくしたちの背は照らしだされ、何とも知れぬ敵機がすぐ上にあるのだ。
「もう、これまで・・・・・・」と、必死に草にしがみついていた。やっと我にかえり、頭をおこして、ふり返ってみると、丹前やふとんをぞろぞろと引きずって、青田のあぜを避難民の行列……。 それは、まさに、この世も末かと思われるばかり様相であった。ついに、来たるべきものが来たのだ。これでもか、これでもかと容赦ない敵機の爆撃。 もう、とても生きた心地など、どこにもなく、「これで最期!」とわたくしたちは何度抱き合ったことだったろうか。今、こうして思い出しても、ジーンと頭の芯から背筋が冷え凍るようで、よくも生きていられたものだと思えてならない。
ずいぶん、それは長い時間だったように思う。 B29の去ったあと、わたくしたちは、せきぶちから這い上がり、まっ暗な校庭をお互いに呼びあいながら、ともかく医専の玄関に集まり、友だちの人数を確かめあった。そして100余名の寄宿舎生が、奇蹟的にも全員無事とわかり、先生も生徒も、何よりホッとしたのだった。すぐ二階に上がって、北の方をのぞいてみた。黒ぐろとヒバやポプラに囲まれた校舎の屋根が見えがくれし、その奥の寄宿舎のあたりが、赤あかと火を吹き上げているのを目にした時、お互い、 こぶしを握りしめながら、涙をどうすることもできなかった。湾に沿って東西にひろがる街は、一面に火の海と化し、燃えつづけた。夜が深まるにつれ、国道から南の郊外の医専の方へ向かって、 筒井の道路沿いに立ち並んだ家いえまでが、まるで将棋の駒が倒されていくように、斜めになって焼け落ちていくのを眺め、何ともいいようのない思いだった。
そのうちに夜も明けて、市の東はずれの、浪打国民学校が難をのがれたというので、そこへ一時移動することになった。 みちみち、堤橋から浪打までの、1Kmほどの国道の両側は一面の焼野が原、一夜にして残骸となり果てた家いえは黒ぐろとまだくすぶりつづけ、時おり、ムシロがかけられておかれてあるのは死者なのだろう。道路はまた、焼け倒された電柱や電線がいっぱいに横たわり、のたうち、やっと足場を選びながら行くわたしたちは、防空頭巾で口を厳っていてもなお煙にむせて息がつまりそう。 目は痛く、そしてゴム長を通してヒリヒリと足裏の熱かったこと。加えて、おりからの7月の太陽にカッと照りつけられ、その熱気はまことに息苦しいばかり。ようよう浪打国民学校に落ちついてみると、そこには、すでに焼けだされた避難民が各教室にたむろしていた。やっと炊き出しの小さいオムスビを一つずつあてがわれ、ともかくも、お互いに”生きた”という思いを噛みしめあったのだった。
着のみ着のまま、あまりのシ ックに眠れず、教室でごろごろと一日を過ごすと、翌日からもう焼け跡整理の作業が始まった。つい、一昨日までの学園が、見わたす限り瓦礫の原、何から手をつければいいのやら、先生も生徒もただぼう然自失とはあのことなのだろう。日ごろ、乳母車ほどの小さな手押しポンプを引っぱり回して、いざという時はまず「ご真影」と、何遍も消火作業の訓練をさせられたことが、この大規模な空襲の前に一体何ほどの役にたったのか。バケツに水を入れておけ、ぬれムシャや砂袋をかけよ、何もかも空しかったのだ。 わたくしは、焼ける半月ほど前、大事な赤表紙の「辞苑」(国語辞典)などを小さな柳行李に入れて、寄宿舎の中庭の土中に埋めておいたのだったが、まるでどのあたりなのか見当もつかず、掘るすべもない。
空襲のつい2、3日前に、女学校の先生からお借りした大きな日本史の図鑑が気にかかり、部屋のあとと思われるあたりを捜していたら、はっきり、それとわかるものがあり、ページにさわると、カシャッとくずれるばかり……..、あの時は、どうしたものかと涙もでない思いだった。とっておきの絹やメリンスの丹前、来客用の夜具など、入学した時に母が持たせてくれたわたしたち姉妹の寝具もいっさいは灰と化して・・・・・・。 ただ、 洗面所のあとと思われる所に、作業帰りのオンボロズボンを、あとで洗おうとバケツに水漬けしておいたそれだけが、皮肉にもそっくりそのまま焦げもせずにあったのには苦笑させられたものだ。
焼けだされて3日目だったと思う。 焼け跡へ出向いていたら郷里(七戸)の母が訪ねてきた。何にしろ、汽車の切符さえ制限されて容易に手に入らぬ時だったから、朝早く出かけたが、野辺地の駅で四時間も待たされ、昼ごろやっと汽車に乗れたと思ったら、野内で列車はストップ、それからは、ほとんど小走りに走り通してきたのだという。防空頭巾にモンペ姿のやつれた母は、ふたりとも死んだものと諦めてきた、といって2人の姿を見て泣いた。あの時藤原先生が目を細めて「全員、無事だったんですよ」と母に話されていた光景が忘れられない。母の手にあった大きな2つの弁当箱には、平素なら、馬の飼料となるはずの大粒の玉蜀黍をはじいて塩ゆでしたものと、お米があちこちに入ったおからの御飯がつめてあり、皆で分けあって、むさぼるようにほおばったのをまざまざと思い出す。
そのあと、わたくしたちは、しばらく郊外の細越国民学校の教室におせわになり、そこで8月15日の終戦を迎え、何にもかも新しく、また出直すことになったのだった。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)