私が青森空襲を体験したのは、まったくの偶然からであった。あの空襲の日まで、私は青森というところに、行ったこともなければ、行こうと考えたこともなかった。私は、あの日、まったく偶然に、北海道まで行く旅行者のとして、青森を通過しようとしていたにすぎない。そのとき、私は19歳で、東京外語の2年生であった。
私の家は、徳川時代から代々江戸に住んできて、地方には親類もない。それが、どうして、あの戦争中、北海道くんだりまで出かけることになったのか。あの時代の世相を知る背景のひとつとして、そのいきさつの荒筋だけでも、かいつまんで書いておいたほうがよいかもしれない。
いつの時代でもそうなのだが、東京というところは、政治の中心地であったせいか、ときの政府がどんなに秘密にしておきたいと思うことでも、いつのまにか民間に洩れてきてしまうものであり、そのため、東京人というものは、政府をあまり信用しない習性をもっている。
昭和18年の後半ごろには、私たちが、大東亜戦争というもののなりゆきに、かなり懐疑的になっていたことはいなめない。政治の裏側で、和平のための動きがとりざたされるようになり、それはまず、東条内閣の倒閣運動という形をとって、隠然と進行した。そして、私たちのような、若くて無鉄砲な人間たちが、その使い走りに利用された。
昭和19年になって、東条内閣はどうやら倒れたものの、和平への動きはいっこうに進展しないまま、その秋からサイパンを基地としたアメリカ空軍の日本本土空襲がはじまり、政府は本土決戦、一億総玉砕を呼号するようになった。当時の和平運動には、いくつかのグループがあり、それぞれの思惑をもって動いていたらしいが、私たちのような使い走りの少年には、どれがどうなっていたのか、こまかいことはわからない。そして、昭和19年11月から昭和20年5月までの連日の空襲に、東京は焼け野原となった。
戦争がそこまできた段階で、ある日、私たちは、エライ人からこういわれた。「この戦争はあと1年以内に終わるだろうが、その前に米軍の本土上陸が行なわれれば、おそらく一千万人以上の人が死ぬことになるだろう。君たちは、ここで犬死にすることなく、万難を排して生き残り、戦後の新しい日本の建設に協力してもらいたい。そのとき、おそらく日本は共和国になり、初代大統領は鳩山一郎あたりがやることになるだろう」なるほどそういうものかと子供心に得心して、さて、どこか地方に身をひそめようにも、どこにも知人がいるわけではなし、また鉄道の乗車券は公用の者以外は手にはいらなくなっていた。
そのころ、連日の空襲で家を焼かれた罹災者たちが巷にあふれ、東京の治安は無政府状態に近かった。そうした厄介物の罹災者たちを狩り集め「拓北農兵隊」と銘うって北海道の原野に送りこんでしまう計画を政府がたてたのをさいわいに、私はそれにまぎれこんで単身北海道へゆく決心をした。
私たちが、その何陣目に当たるのか知らないが、指定された日の午後2時、上野駅裏の桜ヶ丘国民学校に集められた罹災者は、女、子供、老人を混えた約2000人。 すしづめの臨時列車につめこまれ、北海道に向かったが、軍用列車優先のため、走ってはとまり、走ってはとまり、30数時間もかかって青森駅にたどりついたのが、真夜中をすぎたころであったと思う。
そのとき、すでに青森空襲ははじまっていた。灯火管制のため真暗な車内から手探りで勝手のわからぬ長いプラットフォームにでると、青森市内のあちこちに火の手が上がっているのが見えた。暗くたれこめた空の上で、B29の爆音がきこえ、警官と駅員らしい人影が「はやく退避しろ」と叫んで走りまわっていた。火災の炎に照らされて、黄昏ほどの明るさがあったので、同行者のなかに混乱はおこらなかった。この人たちは、それまでの半年間、東京で連日の空襲をくぐりぬけてきた人たちなので、いわば空襲のベテランだった。それに、失うものをすべて失ってしまって、これ以上失うべき何ものも持たなかったためか、ひどく落ち着いていて、「これも何かの縁だから、消火の手伝いでもしようじゃないか」といいだす者もあった。いずれにしても、持参した手荷物はどこかに置いて、身軽にならなければ、どうすることもできない。一行は連絡船の埠頭に向かって歩きだし、場所を決めてめいめいの荷物を山にまとめ、3名の見張りをおいて、線路づたいに駅の構外へでていった。
私は単身者で身が軽いということで、残留見張り番の1人になったので、その後の一行の行動については何も知らない。残された私たち3人は、積み上げられた荷物にふりかかってくる火の粉を消したり、上空を通りすぎる爆音の数をかぞえたりしていた。 眼にはいってくるものといえば、燃えているものばかりである。 暗い海の上で燃えている船、人影のまったくない埠頭で燃えている倉庫群。ふしぎなことに、青森駅そのものは燃えていなかった。屋根がそっくり落ちてしまったプラットフォームが一本あったくらいで、周辺の商店街や住宅地のほうがひどかった。
西も東もわからず、何の情報もないツンボ桟敷におかれていたくせに、私たちは、それまでの東京での経験から、空襲の山場がすでにすぎ去ってしまっていることに気づいた。私たちは、敵機の姿が見えなくても、その爆音だけでそれがB2かグラマンかP5かという機種ばかりでなく、どのくらいの高さをどの方角に向かって飛んでいるのかということもわかっていたし、爆弾が落ちてくる数秒前にそれがどのへんに落ちるかということも、その空気をつんざく音だけで判断できた。日本軍の対空砲火は散発的で、私たちの眼で確認できた撃墜米機は一機もなかった。
しかし、市街地の火勢はひどくなるばかりで、煙がたえず私たちのまわりに流れこんできて、眼と鼻がいたかった。B29の爆音がきこえなくなってまもなく、警官が一人やってきて、「こんなところにいてはいかん。 早くどこかへ退避しろ」と威たけだかにいう。あの時代の警官はずいぶんいばっていたものだが、その警官が、 サーベルではなく生身の軍刀を吊っているのが異様だった。「われわれは荷物の番をしているのだ。それに、どうやらB29はみんな帰ってしまったようだ」と私たちが説明しても、興奮のあまり乱心したとしか思えないその警官は、われわれに拳骨をふるったばかりか、罹災者たちが東京から後生大事に抱えてきたわずかばかりのみすぼらしい荷物を足蹴にしたりした。これ以上さからったら抜刀しかねないと考え、それに空襲はおわり、あとは類焼の心配だけだと判断した私たちは荷物をそこにおいたまま、埠頭から市街地へでてみたが、他の一行はどこへ行ってしまったのか見当もつかない。あちこちで建て物が燃えているが、消防車も見えず、ほとんどの人は消火もせずに逃げてしまったようで、人影というものがない。習い性というが、習慣というものは恐ろしいもので、私たちは、誰に命じられたわけでもないのに、落ちているバケツをひろい集めて、誰の家ともわからぬ建て物の火を3人で消しとめた。
夜が白々あけるまでに、青森の中心部はあらかた焼けてしまった。そのころ、グラマンらしい黒い機影と爆音が低空をかすめて私たちの頭上を飛び去っていった。「あれはサイパンからはこられない。近くに機動部隊がいるのかもしれない」と私たちは語りあった。夜があけてくるにしたがって、あちこちの消火作業を手伝っていた見覚えのある東京組の顔が発見され、私たちはほっとした。そして、女子供はみんな古川国民学校に集めてあるというので、2人はまた荷物番にもどり、私は場所を確認するため、他の人につれられてその学校に行ってみた。 古川国民学校というのはすでに名ばかりで、内部は完全に焼けてしまっていて残っているのは建物の外壁だけであった。
連絡船がいつになったら動くのか見当がつかないので、私たちの一行は、そのまま学校の焼け跡に住みつくことになった。空襲よりも何よりも、ここでの10日ばかりの生活(実際は幾日間いたことになるのか正確な日数はまったく記憶にない)のほうが、私たちにはひどくこたえた。もっとも困ったのが食糧であった。旅行中なので手持ちの食糧はなく配給券がないので食糧がまったく手にはいらない。 青森県庁にかけあってみたが、何しろ青森そのものが焼けてしまっているので工面のしようがない。一行2000人に対して米2俵とほかに乾パン一人あたま6粒ずつが支給されただけであった。私たちは焼けトタンをひろってきてフトンがわりにし、焼け倉庫から黒こげの豆かすやミガキニシンを掘りだしてきて、 生のまま食べた。火を焚くことを禁じられていたが、かりに許されていたとしても、丸焼けの街には燃料がなかった。
そうした生活に耐えきれず、老人のなかから死ぬ人があらわれた。みんなで10銭ずつ出しあってみすぼらしいお棺を買ったとき、これが戦争というものだという実感が胸にしみて、一同は男泣きに泣いた。そのうち、米軍の艦砲射撃があるというデマが土地の人々の間でとびはじめ、山の方へ逃げてゆく人までが現われた。デマというものは、ちょっと冷静に考えれば、そのばかばかしさがすぐわかるものだが、一時的には猖臓をきわめるものである。デマといえば、そのころ、米軍がガソリンをまいてから焼夷弾を落としたという噂が流れたが、どれも私はデマだと思う。東京でも空襲の初期にそんな噂が流れたことがあったが、長距離をとんでくるB29は燃料に余裕のあるはずはなく、おそらく油脂焼夷弾を感ちがいしたものだろう。そのころ、青森県知事が私たちの集落へ激励にきて、1人に1粒ずつ梅干をくれたが、集落内はすでに地獄に近い様相をていしていた。
大湊に米艦載機の空襲があったのは、あれから幾日たったころだろうか。そのとばっちりが青森にもあって、夜明けがた、グラマンの小型爆弾と機銃掃射をうけて、それまでほとんど無傷だった青森駅の一部が破壊された。ちょうどその時刻、私は駅にいて、至近距離で爆弾をうけたにもかかわらず、幸運にもかすり傷ですみ、隣に倒れていた駅員らしい制服姿の人を1人かつぎ出した。その人は、顔半面が赤黒く焦げたようになっていて、ノドのところにあいた傷口から、びっくりするほど勢いよく血が噴き出していた。この人が、あと助かったかどうかわからない。
こんな状況のなかで、私たちのような浮浪化したヨソ者が2000人も市内にごろごろしているのでは、当局にとっても頭の痛いことだったろう。それから2、3日して、小さな船がどこからかまわされてきて、私たちのなかの半数をのせ函館まで運んでくれた。私はクジ運がよく、その半数のなかにはいったが、あとの人たちはその後どうなったのだろうか。
はじめて見る函館の港は、埠頭も駅も、爆弾の穴だらけであった。そこではじめて、私たちは広島に「特殊爆弾」が落とされたという噂をきいた。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)