ちょうどその頃、 夫の弟が満州から栃木県大田原市に戦車部隊として移動してきており、その家族が私の父母と一緒に平館村の野田というところに疎開をしておりました。昭和20(1945)年7月14日の朝、たびたびの空襲で各学校が休みに入りましたので、子供らを疎開させようと思い、迎えにきていた父母に長女、二女、長男を頼み、朝早くから支度をして野田からきた加賀丸という船に連れていってもらいました。この船には私たちのように疎開する人や、村から来て退院していく人たちが4人ぐらい乗っていました。 人を待ったりしているうちに予定の時刻が過ぎ、昼すぎに出航しました。

油川沖で船のエンジンに故障が起きて動かなくなった午後1時頃、 グラマン戦闘機が青函連絡船を攻撃しはじめ、波間に漂っていたこの小さな無防備な船にまで襲いかかってきたそうです。 船内にじっと潜んでいた二女の耀子は外の様子を見るために立った父の後に席を替えたそうですが、これが運というものなのでしょう。グラマン戦闘機が去って、もう大丈夫という声で、みんな伏せていた顔をあげたけれども、耀子だけは伏せたままでいたそうです。よくみると弾丸は頭を貫いて頸動脈から、肩に抜けており、上を見ると小さな穴から光が洩れていたそうです。動けない船を他の船に引っぱってもらって、船岡(平館村)に着いて、そこから野田までリヤカーで運んで、服を脱がせてみたら体中血に染まっていたそうです。

青森に残っていた私どもに知らせが入りましたので、すぐ自転車で向かいましたが、躍子の傷は見ない方がいいといって、私共には見せてくれませんでした。あとで聞きましたところ、菊の花びらがパッと開いたようになっていたそうす。 煙を出すことが禁じられておりましたので、火葬にすることができません。一時はそのまま埋葬して、7月22日に飛行機の来ない間をみて、村の人たちの協力で、死体に稲わらをいっぱいのせてどうにか火葬にすることができました。

7月28日の朝は墓参りをすませてから、監視隊本部に勤務していた夫の妹、たまちゃん (三浦たま) にてんぷら (大豆をすって麦粉を混ぜて油であげたもの)を届けて帰り、夕食のしたくをしておりました。その頃は煙を出してはいけないといわれていたもんですから、早目におにぎりを作り大豆のてんぷらをかばんに入れて、いつでも逃げられるようにしておりました。

夜9時頃警戒警報になったと思ったら、すぐにもう空襲でした。急いで食糧と位牌をリュックにつめて鉄かぶとをかぶり、薄い夏かけをかぶり防空壕に入りました。いったん壕からでた父が大町方面の火の勢いをみて「こうしてはいられない、さきに逃げろ」と、どなるので、夢中で旭町を通って大野の方へ向かいました。 そして降りそそぐ焼夷弾を避けるために小川に入って水をかぶり、避難する人の波に流されるように逃げました。 田んぼでふるえながら真赤に燃えあがる街並みを眺め、頭巾や背中のこげた人、 じゅずを持ったおばあさんなど、逃げてきた人たちと一緒になってわが家の無事と家族の安全を祈っておりました。

12時過ぎて、飛行機の音も聞こえなくなったので、わが家が万一焼けずに残っていないかと戻ってみましたが、水をかぶって冷えたせいか、寒くてならず、途中の焚き火で体を暖めて夜の明けるのを待ちました。

一面焼け野原の中で、ようやく捜した自分の家の焼け跡で、善知鳥神社の池に入って助かったという知人に会いました。米をといでおいたのがちょうどご飯になっていたので、ぬかづけの魚を焼け跡からみつけて、皆で食べました。町会から、高田村へ行けば炊き出しのおにぎりが一人に一つずつ配給されると聞きましたが、あまりにも遠いのに驚き行きませんでした。

とりあえず、 造道の親せきにやっかいになって一日を過ごしましたが、たまちゃんのことが気がかりになり、監視隊本部のあった方へ行ったが、その途中でずいぶんひどい死体を見ました。もちろん、本部は跡かたもありませんでした。

あとで知ったのですが、 7月28日の夜12時少し前まで本部を守っていたがレンガの壁が崩れてきてからはじめて皆避難したそうです。その時も電話機を背負って国道を柳町まできたがあまりの火勢に引き返し、古川の辺りでこんどは跨線橋も突破できず、何人かが倒れてしまったんだそうです。 同僚の千葉さん、葛西さんの死体は見つかりましたが、たまちゃんと松下さんの死体は見つからなかったので、三内の死体置き場まで行き何時間もかけて捜しましたがついに見つけることができませんでした。

妙な事がありました。 身元がわからない死体でも、身内の人が枕元に立つと口、鼻、耳から血のようなものが、流れてくるのです。また娘さんを捜しに来たが炭化した死体で見わけがつかず、歯を見て自分の娘を見つけた歯医者さんもおりました。私はあの7月14日と7月28日は忘れることができません。(「青森空襲の記録」青森市 1972年より)