空襲がはげしくなるにつれ、その被害をいくらかでもかるくするため、一ヵ所に集中している人や建物を分散させるためにとられた。軍事施設や、軍需工場を安全な地方にうつさせる「工場疎開」。老人や子供たちを都会から田舎にいどうさせる「人口疎開」。国民学校単位で集団で地方にひなんさせる「学童疎開」。空襲のときの火災から、類焼をふせぐための「建物疎開」などがあった。
青森市では「工場疎開」 や 「学童疎開」はなかったが、国民学校の児童、母親、老人、病人などが、田舎の親戚をたよって疎開した。市の報告によると1945年4月から6月のなかばまでに4000余人が疎開したとある。これは届出をした人だけで、じっさいはもっとおおかった。また家財だけを疎開した人もおおくいた。
建物疎開は、1945年5月1日から半月のあいだに、強制的におこなわれた。現在の浪館通り、八甲通り、柳町通り、税務署通り、平和公園通り、藤田組通りがそれである。2920戸の家がとりこわされ、14600人の市民がたちのきをさせられた。目の前で家がこわされるのをみて、泣きやまぬ老人もいた。
空襲のとき、類焼には役立たなかったが、逃げる道としては役にたった。戦後は現在のように、幹線道路として生きている。