配給は、軍需優先で、生活物資が不足してきたため、経済を統制するため、1933年(昭和8年)にきめられた。さいしょは石炭だけであったが、物が不足してくると、やがて石油、木炭とひろげられてきた。
戦時体制にはいると物資はますます不足し、1942年からは「物資統制令」により、切符による配給制度がおこなわれるようになった。これは非常時であることを国民に認識させる、節約をてっていさせる、生活必需品を公平確実に配給する、ヤミ価格をふせぐことをねらったものであった。配給は、米、味噌、塩、しょうゆ、砂糖、野菜、酒、たばこなど生活必需品から、手拭い 晒などの衣料品、下駄のはてまで、あらゆるものが対象になった。物を買うときは、この切符がなければいくらお金があって買うことができなかった。
ちなみに衣料の購入券は、一年に一人、都市部で百点、郡部では80点の切符がわたされ、たとえばワイシャツ一枚は12点というぐあいであった。青森市では、家を逃げだしたものには配給をとめるという通達をだしたため、空襲の前夜までにぞくぞく帰ってきて、被害をおおきくしたのはいまもかたりつがれている。(「次代への証言 青森空襲」平成10年 青森空襲を記録する会 OCRで文字起こし)