(一)
「警戒警報」のサイレンと同時に飛び起き、私は暗がりの中で学校へ出勤すべく準備をしました。
忘れもしない昭和二十年七月二十八日、青森大空襲の夜。私は橋本小学校に勤めて一年にもならない新米先生でした。「近頃、警報が出ても、出番なのに出てこない先生がいる。しっかり気を締めて学校を守ってもらいたい」と、学校長の訓示があったばかりなので、出番である私は、「気をつけて行けや。今晩当り危ないって」の母の声に送られて出勤しました。たしかその夜は、雨が降った記憶があります。真っ暗な道を不気味に鈍く光っている水溜りを避けながら急ぎました。真っ黒に流れる堤川を渡り、女子師範学校(今の文化会館)の前まで来ました。子供の頃、「赤ちゃんを抱いた母親の幽霊がでる」と恐れていた柳の大木が黒く繁ったそばの校門も大きく開かれて、防空頭巾・黒づくめ服装の女生徒が駆け足で出てきました。きっと寄宿生でしょう。暗がりの中での彼女達はまるで忍者のようでした。私は思わず緊張で身震いしました。
橋本小学校へ着くとコンクリートで作られた校庭の防空壕へ入っていきました。いる、いる。当番の先生達が千客万来のような陽気さでおしゃべりしていました。(電池かなにかで壕内は明るかった記憶があります)校長の気合のこと。情報によれば敵機の空襲はあるらしいことなど、話が続きました。ややしばらくしてから、警戒警報が「空襲警報」にかわり、少しの間をおいて、爆音が聞こえてきました。壕内は急に静かになりました。「一機、二機・・・・・・」と調子に乗って耳で数えていた男子先生の顔が次第に強張ってきました。何機かわからないほど、爆音が重々しく耳を圧してきたからです。壕内は身の置き所がないくらい不気味な緊張感が流れました。「ズン!! ズン!!」爆撃が始まりました。工藤正夫先生、山道忠二先生、石岡透先生の男子先生。相馬きく先生、斉藤富美子先生、出口先生たち。お互いに目と目、顔と顔を見合わせて、一心に不安をこらえました。完璧な防空壕に入っているから外の様子は全く判りませんでした。
どれくらい時間が立ったでしょう。工藤先生、山道先生は様子をうかがうのに重い戸を押して外へでました。さっと外の強烈な轟音と、わけのわからない叫びと光が、一度に戸の隙間から入って、戸が閉まると同時にもとの沈黙に戻りました。一瞬の出来事に、みんな押し黙ったまま目だけを大きく開いて情報を待ちました。出ていかれた男先生は帰ってこられません。「どうしたのでしょう」みんな不安でいっぱいでした。今度は教頭の石岡先生が外へ出ましたが、すぐ戻ってきて、
「大変だ!! 裏の夜間中学が燃えている。すぐみんなで消すように」私達は始めて壕から出て外を見ました。「あっ!!」私達は思わずそこへ立ち尽くしてしまいました。
そこで見た光景は正に生き地獄でした。轟音を響かせながら、真っ黒い空に機体を浮かせている巨大なB29。余りの巨大さに呆然としました。焼夷弾で焼かれた青森市の炎を反映させながら、妖しいまでに美しいピンクの色を輝かして、何機も飛行しているのです。その下を逃げ惑う市民は、親は子の名を呼び、親にはぐれた子は泣きながら親を探し求め、恐ろしさのため半狂乱で喚き、訳のわからない叫びが渦を巻き、ゾロゾロと群れをなして、浦町駅(今の平和公園)の方向へ流れていっているのです。阿鼻叫喚!! これが本当の地獄の姿でしょう。その列が絶えることなく紅蓮の炎の中をB29に追い討ちをかけられ、公会堂(海手)の方から浦町駅(山手)の方へ続いているのです。青森市は大空襲のルツボだったのです。
橋本小学校はその時点では、まだ無事でした。夜間中学は橋本小学校の裏手にありました。バケツに水を入れ、学校と隣接の神明様の間の百メートルを一気に駈けていきました。中学校は炎に包まれていて、バケツ一杯の水は何の役にもたちませんでした。又、空のバケツを提げて百メートルを走って戻ってくる苦しさといったらありません。戻ってくると、石岡先生は今度は校舎の二階を指して、「水をかけろ!!」と怒鳴っていました。「あぁ・・・」、その教室は四年の私の受持ち学級なのです。もくもくと黒い煙を上げているではありませんか。私はバケツに水を入れて走りました。バケツの水は二階に届くはずはありません。バケツを提げたまま、ただ二階の煙りを見ているだけでした。煙りは真っ直ぐにあがっていました。何の疑いも持たず、毎日の防火訓練は何だったのでしょう。愚かしさがこみ上げてきました。あまりにも力の違い過ぎにたじろぐばかりでした。
気が付いてみると、男子先生はどなたも居なくなりました。きっと家族を案じて変えられたのでしょう。一番年上の相馬先生は残った女の先生を集め、「これまでです。さあ、私達も逃げましょう」と、言われ、外壕の水を頭から被って逃げることにしました。普段ボウフラなどわいている水ですが、思いきって被りました。おなかの当りが変にぬるぬるした不快感は、今でも鮮明に覚えております。私はのろしのように煙りの上がっている校舎をふりかえり「さようなら」を心で言って逃げる市民の渦の中に紛れ込みました。
先生たちとはすぐに逸れてしまい、人の渦を泳いでいる私には探しようがありませんでした。暗黙の中の紅蓮。燃えさかる街が、爆音が、叫び声が、無我夢中へと駆り立てるのです。B29は容赦なく、繰り返し襲ってきました。地上百メートルのところで、束にした焼夷弾が帯を解かれ、傘のように広がりながら落ちてくるのです。不気味な「シャー」という音で雨のように、そう、爆弾が降ってくるのです。「爆弾が落ちたら伏せろ!!」の訓練は、この際、何の役に立つものではありません。上を見ながら走り、あの音が聞こえたらパッと物陰に身をかわすのです。たとえそれが燃えている建物であろうが、爆弾から身を守る方法はそれしかありません。掛け布団を頭から被って逃げていたおじいさんが訓練通りの「伏せ」をしましたが、それっきりおきあがりませんでした。彼は直撃を受けたらしいのです。指示され教育された防火訓練を、忠実に守り実行した市民の哀しい姿がそこにあったのです。
私はやりきれない気持ちでいっぱいでした。爆弾の落ちる合間を見ながら、ともかく人の逃げる方向の浦町駅を目指しました。逃げるのではなく追われているのです。洪水が流れるように人々は渦になってB29に追いたてられ、袋に追い込まれていきました。背後から幼い姉弟がついてきました。きっと親に逸れたのでしょう。見るとその子の防空頭巾は青白い炎で燃えていました。私はバケツをしっかり持っていましたので、防火用水から水を汲んで消してやりました。水をかけただけでは火を、軍手の手でこすって消しました。また爆弾が降ってきました。私はその幼い姉弟と一緒に用水路に入り、胸まで浸かりながら、コンクリートの橋の下に身を潜めました。
やがて浦町駅まで来ると兵隊さんがいました。鉄道員もいました。何よりも力強く感じたのは、蒸気を吐いて今にも出発しそうな機関車がいたことです。今考えると単純なことであるけれど、いざとなったらそれに乗って逃げ出せると思いました。人々はみんなB29に追われて、駅裏の田圃へ逃げていきました。いつしか幼い姉弟を見失ってしまいました。爆撃はなおも執拗に続き、駅を通り越して田圃の方へと攻撃していきました。「もう逃げるのはよそう」危険ではありましたが、どこまで逃げても同じだと思い、私はホームの荷物の間に身を寄せました。駅では、飛火で燃えかける火を、駅員が縄を巻いた竹竿で手際よく消していました。(ここでは訓練が生きていた)逃げるのを止めてから、周りがよく見えました。
駅前の官舎は燃えていましたが、凄まじい燃え方をしているのは製罐工場の並びにある東洋ビスケット工場でした。火は火を呼び、やがてそれが渦になり、竜巻になって火の粉を散らしながら、何十メートルかの火柱になって立ち昇っていくのです。周りのものを巻き込んで・・・・・・。目を転じて松原町の方を見ると、和田寛の大きな建物が、工場が盛んに燃えていました。道路に面した家々が、一面の田圃の中で火の手をあげて燃えているのを見ると、火竜が身を捩って火を吹き出している様と同じでした。芥川竜之介の「蜘蛛の糸」の地獄もこうだったに違いありません。
B29の攻撃はようやく終わりました。私は水を被って濡れたシャツやズボンをいつまでも着ているわけにはいかないことに気がつきました。勿論、着替えなどはありません。駅前の官舎の燃え残りの熾火で、腕を引っ張ったり、股を開いたりして乾かしました。その頃になって漸く東の空が白み始め、田圃の方へ逃げた人達が火の周りに集まってきました。どんなにひどい空襲であったかを口々に話しながら・・・・・・。直撃を受けて頭が吹っ飛んだ死体だの、死んだ赤ん坊をおぶったまま気がおかしくなった母親だの、話を聞いて慄然としました。こうして空襲の夜は終わったのでした。
(二)
青森大空襲の一夜はあけました。私の母校であり、勤務校でもある橋本小学校がどうなったか気掛かりで、戻ってみることにしました。同僚達と逸れてしまった今、みんなどうしているか考える余地もなくバケツを提げて橋本小学校を目指しました。駅前は焼け焦げた建物が崩れ、累々とその残骸をさらしていました。視界を遮る建物の一つもなくなり、海の方まで見とおしが出来ました。青森市は焼け崩れた建物の墓場と化してしまいました。
橋本小学校はちょうど臨終を迎えようとしていました。国旗掲揚台は一本の火柱となって燃え、正面校舎は骨組みの柱が真っ赤な炎となって、今まさに崩れようとしていました。「遅くまで生き残ったんだな」橋の上からは、見とおしのよくなった焼け野原を見渡すことが出来ました。と、焼け残っている家があるのです。「どのあたりだろう」私は、ドンドン急ぎました。栄町を過ぎ、松森通り(花園二丁目)へ一気に走りました。緑色のトタン屋根が見えました。まさに我が家の屋根に違いありません。息をはずませて走りました。が、はたと立ち止まり呆然としました。緑のトタン屋根は我が家のいも畑を隔てた向い側の家だったのです。結局、我が家のいも畑が防火の役目をし、延焼をくいとめたのでした。(その後、トタン小屋の家と無傷の家とが向き合った生活が続いたのです)男子師範学校も、天理教の建物も焼け、浪打小学校はクリーム色三階建ての校舎の威容を誇るが如く残っていました。父も母もみんな無事でした。家族の安否をたずねて、弟は走りまわっていました。全員無事であることを聞き、土中に埋めてあった酒を取りだし、大豆の交じった御飯で無事を喜び合いました。
しかし、何と失うものの大きかった戦だったでしょう。小学校からの友達横山桂子さんは防空壕の中で焼け死にました。恩師の成田サダ先生も同じ壕で死にました。そこの町内の人達と一緒に・・・・・・。幼な友達の藤田とよチャンは、空襲後の爆撃で死にました。空襲の夜明けと同時に、あの青空に美しい八甲田山を見たとき「生きている」実感をしみじみと感じました。空襲の回想と共に亡くなった方々の冥福を祈って証言を終わります。
次代への証言第七集
Testimony for the Next Generation: Testimony of the Aomori Air Raid
Tami Mori
I woke up at the same time as the siren sounded.
I jumped out of bed at the sound of the warning siren and prepared to go to school in the dark.
I will never forget July 28, 1945, the night of the Aomori air raid. I was a new teacher who had been working at Hashimoto Elementary School for less than a year.
I was a new teacher who had been working at Hashimoto Elementary School for less than a year when I heard a warning: “These days, some teachers don’t come out when it’s their turn. I want you to keep your eyes open and protect the school.
The school principal had just given an instruction to the teachers.
I was on duty, so I said, “Be careful. Go carefully, it’s going to be dangerous tonight.
I was sent to work with my mother’s voice saying, “Be careful.
I remember it was raining that night. I hurried along the pitch-black road, avoiding the puddles of water that glowed eerily and dully.
I crossed the Tsutsumi River, which flowed in pitch black, and came to the front of the Women’s Normal School (now the Cultural Hall).
The school gates were wide open, and female students dressed in black and air-raid hoods came running out. They must be boarding students. In the darkness, they looked like ninjas. I couldn’t help but shudder with nervousness.
When I arrived at Hashimoto Elementary School, I went into the air-raid shelter in the schoolyard made of concrete.
There they are, there they are! The teachers on duty were chatting cheerfully as if they had a thousand visitors. (I remember that the shelter was brightly lit with batteries or something.
The principal’s enthusiasm. (I remember that it was bright in the shelter due to batteries or something.) We continued to talk about the headmaster’s enthusiasm, and that according to information, there would be air raids by enemy planes.
After a short while, the alert was changed to “air raid alert,” and after a short pause, the sound of explosions could be heard.
The shelter suddenly became quiet.
The teacher, who had been counting the number of planes with his ears, gradually became tense. The sound of explosions was so heavy that he could not tell how many planes were coming. There was an eerie tension in the shelter, as if there was no place to put oneself.
“ZUN! ZUN!
The bombing began.
Masao Kudo, Chuji Yamamichi, and Toru Ishioka were the male teachers. Kiku Soma-sensei, Tomiko Saito-sensei, and Deguchi-sensei. We looked at each other, eye to eye, face to face, and held back our anxiety with one accord.
We were in a perfect bomb shelter, so we couldn’t see what was going on outside.
How long did it take?
Kudo-sensei and Yamamichi-sensei pushed open the heavy door and went outside to check on the situation.
All at once, an intense roar, incomprehensible shouting and light came through the door, and as soon as the door closed, the silence returned. It was a moment of silence, and everyone remained silent, eyes wide open, waiting for information.
The man who had left did not come back.
What’s going on?
Everyone was filled with anxiety.
This time, the vice principal, Mr. Ishioka, went outside, but he came right back.
“Oh my God! The night junior high school in the back is on fire. The night school in the back is on fire. Everyone should put it out immediately.
We were the first to get out of the shelter and look outside.
“Ah!
We couldn’t help but stand there.
What we saw there was truly a living hell. We were stunned by the sheer size of the huge B-29 floating in the black sky with a roaring sound. I was stunned by the sheer size of the B-29s. Reflecting the flames of Aomori City that had been burned by incendiary bombs, the beautiful pink color of the B-29s shone in the sky as they flew.
The citizens fleeing beneath them, parents calling out the names of their children, children separated from their parents crying out for their parents, screaming half-crazedly because of the horror, incomprehensible cries swirling around them, were streaming in groups toward Uramachi Station (now Peace Park).
Screaming and shouting! I guess this is what hell really looks like. The line was being chased by B-29s through the flames of the red lotus and continued from the Public Hall (Umite) to Uramachi Station (Yamate). Aomori City was the crucible of a major air raid.
Hashimoto Elementary School was still intact at that time.
The night junior high school was located behind Hashimoto Elementary School. I filled a bucket with water and ran the hundred meters between the school and the adjacent Shinmeisama Shrine.
The middle school was engulfed in flames and the bucket of water was of no use.
I also had to run the hundred meters back to the school with an empty bucket in my hand.
When I came back, Mr. Ishioka pointed to the second floor of the school building.
“Pour water on it! When I returned, Mr. Ishioka was now pointing at the second floor of the school building and shouting, “Pour water on it!
Oh…” That classroom was my fourth grade class. I filled a bucket with water and poured it on the floor. I filled a bucket with water and ran. There was no way the bucket of water would reach the second floor. With the bucket in my hand, I could only watch the smoke from upstairs. The smoke was coming straight up. What was the point of our daily fire drills if we didn’t suspect anything? I felt so foolish. The difference in strength was so great that I just flinched.
I noticed that none of the male teachers were around anymore. They must have changed them out of concern for their families. The oldest teacher, Mr. Soma, gathered all the remaining female teachers and said
“That’s it. Now, let’s get out of here too.
We decided to escape by covering our heads with water from the outer shelter. We decided to escape by covering our heads with water from the outer shelter. I still vividly remember the uncomfortable feeling of a strange slimy feeling in my stomach.
I looked back at the smoking school building like a smoke signal, said “goodbye” in my heart, and blended into the swirl of fleeing citizens.
I quickly lost the teachers and there was no way for me to find them as I swam through the vortex of people.
The Red Lotus in the dark. The burning city, the sound of explosions, the screams, drove me to selflessness. A hundred meters above the ground, a bundle of incendiary bombs was released from its belt and fell, spreading out like an umbrella. The bombs would fall like rain with an eerie “shear” sound.
“When the bombs fall, get down! training is of no use at this time.
Run while looking up, and when you hear that sound, quickly dodge into the shadows. Even if it is a burning building, that is the only way to protect yourself from a bomb.
An old man who was running away with a quilt over his head got down as he was trained to do, but he never got up again. He was apparently hit by a direct hit.
There was a sad sight of a citizen who faithfully followed and carried out the fire drill that he was instructed and trained to do.
I was filled with a sense of helplessness.
While the bombs were falling, I tried to get to Uramachi Station, where people were running away. They were not fleeing, they were being chased. Like a flood, people were being chased by the B-29s in a whirlpool and forced into bags.
A young sister and brother were following behind me. They must have been deflected by their parents. When I looked at them, I saw that their hoods were burning with pale flames. I was holding a bucket tightly, so I drew water from the water for fire prevention and put it out. I put out the fire by rubbing it with my military hand.
Then the bombs started raining down again.
I went into the canal with my young sisters and brothers and hid under a concrete bridge, chest-deep in water.
When we eventually reached Uramachi Station, we saw soldiers. There were also railroad workers. Most powerfully, there was a locomotive that was belching steam and about to depart. Thinking about it now, it was a simple thing, but I knew I could get on it and escape if the need arose.
All the people were chased by B-29s and fled to the fields behind the station.
At some point, I lost sight of my young siblings.
The bombing continued relentlessly, passing the station and attacking the rice fields.
Let’s not run anymore.
It was dangerous, but I knew it didn’t matter how far I ran, so I huddled among the luggage on the platform.
At the station, a station attendant was skillfully putting out a flying fire with a bamboo pole wrapped with a rope. (Training was alive and well here.)
After I stopped running, I could see my surroundings clearly.
The government buildings in front of the station were on fire, but it was the Toyo Biscuit Factory, located alongside the can factory, that was burning like hell.
The fire called out to the others, and soon it turned into a whirlpool and then a tornado, scattering sparks of fire and rising up in tens of meters long columns of fire. It engulfed everything around it. ・・・・・・
When I turned my eyes and looked toward Matsubaracho, I saw the large building of Wada Kan, and the factory was actively burning. The houses facing the road were on fire in the middle of the rice fields, just like a fire dragon twisting and spewing fire. The hell in Ryunosuke Akutagawa’s “The Spider’s Thread” must have been like this.
The B-29 attack was finally over.
I realized that I couldn’t keep wearing my soaked shirt and pants forever. Of course, there was no change of clothes.
I dried myself by pulling my arms and opening my legs over the embers of the fire in the government building in front of the station.
At that time, the sky to the east finally began to turn white and people who had fled to the fields gathered around the fire. People who had fled to the fields gathered around the fire, talking about how terrible the air raids had been. ・・・・・・
I was horrified to hear stories of dead bodies whose heads had been blown off by direct hits, and mothers who had lost their minds while carrying their dead babies.
This was how the night of the air raid ended.
(II)
The night of the Aomori air raid dawned.
I was wondering what had happened to Hashimoto Elementary School, my alma mater and the school where I worked, so I decided to go back. Now that I was separated from my colleagues, I had no time to think about what everyone else was doing, so I grabbed a bucket and headed for Hashimoto Elementary School.
In front of the station, burnt buildings were crumbling, exposing their wreckage in a heap. There was no longer a single building blocking my view, and I could see all the way to the ocean. Aomori City became a graveyard of burned down buildings.
Hashimoto Elementary School was on its deathbed. The flag stand was burning as a single pillar of fire, and the front of the school building was about to collapse, its frame pillars bursting into red flames.
It must have survived until late.
From the bridge, I could see the burned-out field with a better view. From the bridge, I could see a clearer view of the burned-out field, and a house that was still standing.
I wondered where they were, and I hurried on. I passed Sakae-cho and drove all the way to Matsumori-dori (Hanazono 2-chome). I saw a green tin roof. It must be the roof of my house. I ran with my heart pounding. But then I stopped and was stunned. The green tin roof was the house on the other side of our potato field. In the end, our potato field acted as a firebreak and stopped the fire from spreading. (After that, we continued to live in a house with a tin shack and an intact house facing each other.
The men’s teacher’s school and the Tenrikyo building burned down, but Namiwata Elementary School, a cream-colored, three-story building, remained as majestic as ever.
My father and mother were all safe. My younger brother was running around asking about the safety of his family.
When he heard that everyone was safe, he took out the sake that had been buried in the ground and we rejoiced over the safety of the family with rice mixed with soybeans.
However, it was a battle with a great deal of loss.
My friend from elementary school, Keiko Yokoyama, was burnt to death in an air-raid shelter. My teacher, Sada Narita, also died in the same shelter. I was with the people of the town there. ・・・・・・
My childhood friend, Toyochan Fujita, died in the bombing after the air raid.
When I saw the beautiful Mt. Hakkoda in the blue sky at the dawn of the air raid, I felt a deep sense of “being alive.
I would like to conclude my testimony by recalling the air raid and praying for the souls of those who died.
Testimonies for the Next Generation Vol. 7
Témoignage pour la prochaine génération : Témoignage sur le raid aérien d’Aomori
Tami Mori
(I)
J’ai sauté du lit au son de la sirène d’avertissement et je me suis préparé à aller travailler dans le noir.
Je n’oublierai jamais le 28 juillet 1945, la nuit du raid aérien d’Aomori. J’étais un nouvel enseignant qui travaillait à l’école primaire de Hashimoto depuis moins d’un an.
J’étais un nouvel enseignant qui travaillait à l’école primaire de Hashimoto depuis moins d’un an, lorsque j’ai entendu un avertissement : “Récemment, certains enseignants ne sortent pas quand c’est leur tour. Je veux que vous gardiez les yeux ouverts et que vous protégiez l’école.
Le directeur de l’école vient de donner un avertissement.
Je suis en service. “Attention, c’est dangereux ce soir.
J’ai été envoyé au travail par la voix de ma mère.
Je me souviens qu’il pleuvait cette nuit-là. Je me suis dépêché de suivre la route noire, en évitant les flaques d’eau qui brillaient sinistrement et mornement.
J’ai traversé la rivière Tsutsumi, qui coulait dans le noir absolu, et je suis arrivée devant l’école normale des femmes (aujourd’hui Bunka Kaikan).
Les portes de l’école étaient grandes ouvertes, et des étudiantes vêtues de noir et portant des cagoules anti-aériennes sont sorties en courant. Ils doivent être pensionnaires. Dans l’obscurité, ils ressemblaient à des ninjas. Je frémis de nervosité.
Quand je suis arrivé à l’école primaire de Hashimoto, je suis entré dans l’abri antiaérien de la cour de l’école, fait de béton.
Ils sont là, ils sont là ! Les professeurs de service bavardaient joyeusement comme s’ils avaient mille visiteurs. (Je me souviens que l’abri était éclairé par des piles ou autre chose.
La fougue du directeur. (Je me souviens qu’il faisait clair dans l’abri.) Nous avons parlé de l’enthousiasme du directeur et du fait que, selon les informations, il y aurait des raids aériens par des avions ennemis.
Au bout d’un moment, l’alarme a été changée en “alarme de raid aérien” et après une courte pause, on pouvait entendre le bruit des explosions.
Après une courte pause, on entend le bruit des explosions, et l’abri devient soudainement silencieux.
Le visage de l’enseignant, qui avait compté le nombre d’avions avec ses oreilles, s’est progressivement crispé. “Un avion, deux avions, ・・・・・”, a-t-il déclaré. Le bruit du bombardement était si fort qu’il ne pouvait pas dire combien d’avions étaient en l’air. Un sentiment de tension s’est emparé de l’abri comme s’il n’y avait nulle part où se mettre.
“ZUN ! ZUN !
Le bombardement a commencé.
M. Masao Kudo, M. Chuji Yamamichi et M. Toru Ishioka étaient les enseignants masculins. Kiku Soma-sensei, Tomiko Saito-sensei, et Deguchi-sensei. Nous nous sommes regardés les uns les autres, face à face, et nous avons retenu notre anxiété d’un commun accord.
Nous étions dans un abri anti-bombes parfait, donc nous ne pouvions pas voir ce qui se passait dehors.
Combien de temps cela a-t-il pris ?
Kudo-sensei et Yamamichi-sensei ont poussé la lourde porte et sont sortis pour vérifier la situation.
Un fort rugissement, des cris incompréhensibles et la lumière ont immédiatement franchi la porte, et dès que celle-ci s’est refermée, le silence est revenu. C’était un événement momentané, et tout le monde est resté silencieux, attendant l’information avec seulement les yeux grands ouverts.
L’homme qui était parti n’était pas revenu.
Que lui est-il arrivé ?
Tout le monde était rempli d’anxiété.
Cette fois, le vice-directeur, M. Ishioka, est sorti, mais il est revenu tout de suite.
“Oh, mon Dieu ! La nuit, le collège du fond est en feu. Tout le monde devrait l’éteindre immédiatement.
Nous sommes sortis de l’abri pour la première fois et avons regardé dehors.
“Ah !
Nous ne pouvions pas nous empêcher de rester là.
La scène que nous avons vue là-bas était un véritable enfer. Nous avons été stupéfaits par la taille même de l’énorme B-29 flottant dans le ciel noir avec un son rugissant. Reflétant les flammes de la ville d’Aomori, qui avait été brûlée par des bombes incendiaires, la belle couleur rose des avions brillait au point d’envoûter, et beaucoup d’entre eux volaient.
Les citoyens qui fuient sous leurs pieds, les parents qui crient le nom de leurs enfants, les enfants séparés de leurs parents qui crient pour leurs parents, qui hurlent dans une frénésie à moitié folle à cause de l’horreur, les cris incompréhensibles qui tourbillonnent autour d’eux, se regroupent en direction de la gare d’Uramachi (aujourd’hui le parc de la paix).
Des cris et des hurlements ! Ce doit être le véritable enfer. La ligne était poursuivie sans relâche par des B-29 dans les flammes du lotus rouge, continuant de la salle publique (Umite) à la gare d’Uramachi (Yamate). La ville d’Aomori a été le creuset du grand raid aérien.
L’école primaire de Hashimoto était encore intacte à cette époque.
Le collège de nuit était situé derrière l’école primaire de Hashimoto. J’ai rempli un seau d’eau et j’ai galopé sur une centaine de mètres entre l’école et le Shinmeisama Shrine adjacent.
Le collège a été englouti par les flammes et un seau d’eau n’a servi à rien.
J’ai aussi dû retourner à l’école en courant avec un seau vide.
Lorsque je suis revenu, M. Ishioka m’a montré le deuxième étage du bâtiment de l’école.
“Versez de l’eau dessus ! À mon retour, M. Ishioka montrait maintenant du doigt le deuxième étage du bâtiment de l’école et criait : “Versez de l’eau dessus !
Oh…” Cette classe était ma classe de quatrième année. Il faisait de la fumée noire. J’ai rempli un seau d’eau et j’ai couru. Il était impossible que le seau d’eau atteigne le deuxième étage. Avec le seau toujours à la main, je ne pouvais que regarder la fumée d’en haut. La fumée montait tout droit. Quel était l’intérêt de nos exercices d’incendie quotidiens si nous n’avions aucun doute ? J’étais rempli de stupidité. La différence de force était si grande que j’ai flanché.
J’ai remarqué qu’il n’y avait plus d’enseignants masculins. Ils ont dû les changer par souci pour leur famille. M. Soma, l’enseignant le plus âgé, a réuni toutes les enseignantes restantes et a déclaré
“C’est ça. Maintenant, échappons-nous aussi.
Ils ont décidé de s’échapper en se couvrant la tête avec de l’eau provenant de l’abri extérieur. Nous avons décidé de nous échapper en nous couvrant la tête avec de l’eau provenant de l’abri extérieur. Je me souviens encore très bien de la sensation désagréable d’une étrange sensation gluante dans mon estomac.
Je me suis retourné vers le bâtiment de l’école fumeur comme un signal de fumée, j’ai dit “au revoir” avec mon cœur et je me suis mêlé au tourbillon des citoyens en fuite.
J’ai rapidement perdu les professeurs et je n’avais aucun moyen de les retrouver en nageant dans le vortex des gens.
Une lueur rouge dans l’obscurité. La ville en feu, le bruit des explosions, les cris, m’ont poussé à l’altruisme, et les B-29 ont attaqué sans relâche et de manière répétée. A une centaine de mètres au-dessus du sol, les bombes incendiaires ont été détachées de leurs bandes et se sont étalées comme des parapluies en tombant. Les bombes tomberaient comme la pluie avec un étrange bruit de “cisaillement”.
Quand les bombes tombent, descendez ! La formation n’est d’aucune utilité à l’heure actuelle.
Courez en levant les yeux, et quand vous entendez ce bruit, esquivez rapidement dans l’ombre. Même s’il s’agit d’un bâtiment en feu, c’est la seule façon de se protéger d’une bombe.
Un vieil homme qui s’enfuyait avec un édredon sur la tête s’est baissé comme il avait été formé à le faire, mais il ne s’est pas relevé. Il semble qu’il ait été touché directement.
Il y avait un triste spectacle d’un citoyen qui suivait et exécutait fidèlement l’exercice d’incendie qu’il avait reçu l’instruction et l’entraînement de faire.
J’étais rempli d’un sentiment d’impuissance.
Pendant que les bombes tombaient, j’ai essayé de me rendre à la gare d’Uramachi, où les gens s’enfuyaient. Ils ne fuyaient pas, mais étaient poursuivis. Comme une inondation, les gens ont été poursuivis par les B-29 dans un tourbillon et forcés à se mettre dans des sacs.
Une jeune sœur et un frère me suivaient. Ils doivent avoir été détournés par leurs parents. Quand je les ai regardés, j’ai vu que leurs cagoules anti-aériennes brûlaient de pâles flammes. Je tenais un seau bien serré, alors j’ai puisé de l’eau pour la prévention des incendies et je l’ai éteinte. J’ai éteint le feu en le frottant avec ma main de militaire.
Les bombes ont recommencé à pleuvoir.
Je suis allé dans le fossé d’irrigation avec mes jeunes frères et sœurs et je me suis caché sous un pont en béton, trempant jusqu’à la poitrine.
Quand nous avons finalement atteint la station d’Uramachi, nous avons vu des soldats. Il y avait aussi des cheminots. Mais surtout, il y avait une locomotive qui crachait de la vapeur et qui était sur le point de partir. Quand j’y pense maintenant, c’est une chose simple, mais je pensais que je pourrais m’y mettre et m’enfuir le moment venu.
Tous les gens ont été poursuivis par les B-29 et se sont enfuis dans les champs derrière la station.
À un moment donné, j’ai perdu de vue ma petite sœur et mon frère.
Le bombardement se poursuit sans relâche, passant devant la gare et frappant les champs.
Ne fuyons pas maintenant.
C’était dangereux, mais je savais que la distance à parcourir n’avait pas d’importance, alors je me suis blotti parmi les bagages sur la plate-forme.
A la gare, un agent de gare a habilement éteint un feu volant avec une perche de bambou enveloppée d’une corde. (La formation était bien vivante ici).
Après avoir arrêté de m’enfuir, je pouvais voir clairement ce qui m’entourait.
Les bâtiments du gouvernement devant la gare étaient en feu, mais c’était la biscuiterie de Toyo, située à côté de l’usine de boîtes de conserve, qui brûlait comme un feu d’artifice.
L’incendie a interpellé les autres, et bientôt il s’est transformé en tourbillon, puis en tornade, dispersant des étincelles de feu et s’élevant comme une colonne de feu de plusieurs dizaines de mètres de haut. Elle a englouti tout ce qui l’entourait. ・・・・・・
Quand j’ai tourné les yeux et regardé vers Matsubaracho, j’ai vu le grand bâtiment de Wada Hiroshi, et l’usine brûlait activement. Les maisons qui faisaient face à la route étaient en feu au milieu de la rizière, comme un dragon de feu qui se tortille et crache du feu. L’enfer dans “Le fil de l’araignée” d’Akutagawa Ryunosuke devait être comme ça.
L’attaque du B29 a finalement pris fin.
J’ai réalisé que je ne pouvais pas continuer à porter ma chemise et mon pantalon mouillés. Bien sûr, il n’y avait pas de vêtements de rechange.
Je me suis séché en tirant sur mes bras et en ouvrant mes jambes sur les braises du feu dans le bâtiment du gouvernement devant la gare.
À cette époque, le ciel de l’est a finalement commencé à blanchir et les gens qui avaient fui vers les champs se sont rassemblés autour du feu. Ils parlaient des terribles raids aériens. ・・・・・・
J’ai été horrifiée d’entendre les histoires de corps dont la tête avait été arrachée par des coups directs, et de mères qui étaient devenues folles en portant leur bébé mort dans leurs bras.
C’est ainsi que s’est terminée la nuit du raid aérien.
(2)
La nuit du raid aérien d’Aomori a commencé.
Je me demandais ce qui était arrivé à l’école primaire de Hashimoto, mon alma mater et l’école où je travaillais, alors j’ai décidé d’y retourner. Maintenant que j’étais séparé de mes collègues, je n’avais plus de place pour penser à ce que tout le monde faisait, alors j’ai pris mon seau et me suis dirigé vers l’école primaire de Hashimoto.
Devant la gare, des bâtiments brûlés s’étaient effondrés, exposant leurs débris en un tas. Il n’y avait plus un seul bâtiment qui me bloquait la vue, et je pouvais voir jusqu’à l’océan. La ville d’Aomori était devenue un cimetière de bâtiments incendiés.
L’école primaire de Hashimoto était sur son lit de mort. Le porte-drapeau brûlait comme un seul pilier de feu, et la façade du bâtiment de l’école était sur le point de s’effondrer, ses piliers de cadre éclatant en flammes rouges.
Vous avez survécu jusqu’à tard, n’est-ce pas ?
Depuis le pont, nous pouvions avoir une vue plus claire du champ brûlé. Du pont, je pouvais voir plus clairement le champ brûlé et une maison qui avait survécu à l’incendie.
Je me suis demandé où ils étaient, et je me suis dépêché. Je suis passé devant Sakae-cho et j’ai immédiatement conduit jusqu’à Matsumori-dori (Hanazono 2-chome). J’ai vu un toit en tôle verte. Ce doit être le toit de ma maison. J’étais si excitée et j’ai couru. Mais je me suis arrêté et j’ai été stupéfait. Le toit vert en tôle était la maison de l’autre côté de notre champ de pommes de terre. En fin de compte, notre champ de pommes de terre a servi de coupe-feu et a empêché le feu de se propager. (Après cela, nous avons continué à vivre dans une maison avec une cabane en tôle et une maison intacte se faisant face.
L’école normale pour hommes et le bâtiment Tenrikyo ont été détruits, mais l’école élémentaire Namiwata, un bâtiment de trois étages de couleur crème, est restée aussi majestueuse que jamais.
Mon père et ma mère étaient tous deux en sécurité. Mon jeune frère courait partout en demandant la sécurité de sa famille.
Quand il a entendu que tout le monde était en sécurité, il a sorti le saké qui avait été enterré dans le sol et nous nous sommes réjouis de la sécurité de la famille avec du riz mélangé à du soja.
Cependant, c’était une bataille dans laquelle nous avons beaucoup perdu.
Keiko Yokoyama, une amie de l’école primaire, a été brûlée à mort dans un abri antiaérien. Mon professeur, Mme Sada Narita, est également morte dans le même abri. Elle y était avec les habitants de la ville. ・・・・・・
Mon ami d’enfance, Toyo-chan Fujita, est mort dans le bombardement qui a suivi le raid aérien.
Lorsque j’ai vu le magnifique mont Hakkouda dans le ciel bleu en même temps que l’aube du raid aérien, j’ai ressenti un profond sentiment de “vie”.
Je voudrais conclure mon témoignage en rappelant le raid aérien et en priant pour les âmes de ceux qui sont morts.
Le septième recueil de témoignages pour la prochaine génération
为下一代作证:青森空袭作证
Tami Mori
(I)
我在警报声中跳下床,准备摸黑上班。
我永远不会忘记1945年7月28日,青森空袭的夜晚。 我是一名在桥本小学工作不到一年的新教师。
我是一名刚到桥本小学工作不到一年的新教师,听到一个警告:”最近,有些老师轮到自己时不出来。 我要你睁大眼睛,保护好学校。
校长刚刚发出警告。
我在值班。 “小心点,今晚很危险。
我是被母亲的声音送去上班的。
我记得那天晚上还下着雨。 我沿着漆黑的道路匆匆而行,避开那些泛着幽幽光芒的水洼,黯然神伤。
穿过漆黑流淌的鹤见川,我来到了女子师范学校(今天的文家会馆)门前。
校门大开,身穿黑衣、戴着防空帽的女学生跑出来。 他们一定是寄宿的学生。 在黑暗中,他们看起来像忍者。 我紧张得浑身发抖。
到了桥本小学,我走进了学校操场上用水泥做的防空洞。
他们在那里,他们在那里! 值班老师们欢快地聊着天,仿佛有千千万万的访客。 (我记得那个防空洞是用电池之类的亮着的。
校长的意气风发。 (我记得当时防空洞里很亮。)我们谈起校长的热情,根据情报,会有敌机空袭。
过了一会儿,警报器改成了 “空袭警报”,短暂的停顿后,听到了爆炸声。
短暂的停顿后,可以听到爆炸声,避难所突然变得安静下来。
一直用耳朵数着飞机数量的男老师脸色渐渐变得紧张起来。”一架飞机,两架飞机,・・・・・・,他说。 轰炸的声音很重,他无法判断空中有多少架飞机。 一股诡异的紧张感在避难所里流动,仿佛无处安放。
“尊! 尊!
轰炸开始了。
工藤正雄先生、山道初二先生、石冈彻先生为男教师。 菊相马老师、斋藤智子老师、德口老师。 我们眼睛对着眼睛,脸对着脸,一齐忍住了焦虑。
我们在一个完美的防空洞里,所以我们看不到外面发生了什么。
花了多长时间?
工藤老师和山道老师推开沉重的门,到外面查看情况。
强烈的轰鸣声、难以理解的叫喊声和光亮一下子从门外传来,门一关上,又恢复了寂静。 一时之间,大家都保持沉默,只睁着眼睛等待信息。
离开的人还没有回来。
他怎么了?
每个人都充满了焦虑。
这一次,副校长石冈先生出去了,但他马上回来了。
“哦,我的天啊! 后面的夜初中火了。 每个人都应该马上把它放出来。
我们第一次出了避难所,看了看外面。
“啊!
我们不由自主地站在那里。
我们在那里看到的场景是一个活生生的地狱。 巨大的B-29漂浮在黑色的天空中,发出轰鸣的声音,我们被它的体型惊呆了。 映照着被燃烧弹烧毁的青森市的火焰,美丽的粉红色照耀着飞机,让人迷醉,很多飞机都在飞行。
身下逃亡的市民,父母呼喊着孩子的名字,与父母失散的孩子哭着喊着要找父母,因为恐怖而半疯狂地尖叫着,周围荡漾着难以理解的哭声,正成群结队地往浦町站(现在的和平公园)的方向涌去。
大喊大叫! 这一定是真正的地狱。 这条线路被B-29战机在红莲火焰中不间断地追赶,从公馆(乌米特)一直到浦町站(山手)。 青森市是大空袭的坩埚。
当时的桥本小学还完好无损。
夜初中位于桥本小学后面。 我用水桶装满水,在学校和相邻的神明山神社之间的百米处驰骋。
初中被大火吞噬,一桶水也没用。
我也只好提着空桶跑回学校。
回来后,石冈先生指着教学楼的二楼。
“把水倒在上面! 我回来的时候,石冈先生现在正指着教学楼的二楼大喊:”泼水!泼水!”。
哦…… “那间教室是我四年级的班级。 它在制造黑烟。 我装了一桶水就跑。 桶装水不可能到达二楼。 我只能拿着水桶在楼上看烟。 浓烟直冒。 如果我们没有任何疑惑,我们每天的消防演习还有什么意义? 我满脑子都是愚蠢。 实力相差悬殊,我只是一味地退缩。
我发现,那里已经没有一个男老师了。 他们一定是出于对家人的关心而改变的。 年纪最大的索玛老师把剩下的所有女老师召集起来,说道
“就这样吧。 现在,我们也逃吧。
他们决定从外边的避难所用水遮住头来逃跑。 我们决定从外围的避难所用水遮住头,逃出去。 我至今还清楚地记得,肚子里有一种奇怪的黏糊糊的难受感觉。
我回头看了看冒烟信号一样的教学楼,用心说了声 “再见”,就融入了逃难市民的漩涡中。
我很快就失去了老师们的踪影,我在人群的漩涡中游走,没有办法找到他们。
黑暗中的红色光芒。 燃烧的城市,爆炸声,惨叫声,驱使着我无私奉献,B-29飞机无情地反复攻击。 百米高空,燃烧弹被解开了弹带,落下时像伞一样散开。 炸弹会像下雨一样落下,发出诡异的 “剪切 “声。
炸弹落下的时候,趴下! 训练在这个时候是没有用的。
一边跑,一边抬头看,当你听到那个声音时,迅速躲进阴影里。 即使是燃烧的大楼,那也是保护自己不被炸弹炸到的唯一方法。
一个头顶上盖着被子逃跑的老人按照训练的方式趴下了,但他没有再站起来。 看来,他是直接被击中了。
有一位市民忠心耿耿地按照指示和训练进行消防演练,令人唏嘘不已。
我充满了一种无奈的感觉。
炸弹落下的时候,我想去浦町站,那里的人都在逃跑。 他们不是在逃,而是在被追。 如同流动的洪水,人们在漩涡中被B-29追赶,被迫装入袋中。
我的身后跟着一个小妹妹和弟弟。 他们一定是被父母转移了。 我看了看他们,就见他们的防空罩正燃烧着淡淡的火焰。 我紧紧地抱着一个桶,于是我从水里抽出水来防火,然后把水扑灭。 我用军手搓了搓火,就把火扑灭了。
炸弹又开始倾泻而下。
我和小姐妹、小哥哥们一起进了灌溉沟,躲在水泥桥下,泡到了胸口。
当我们最终到达浦町站时,我们看到了士兵。 也有铁路工人。 最厉害的是,有一辆机车正冒着蒸汽,即将出发。 现在想来,本来是一件很简单的事情,但我想,等时机成熟了,就可以上马跑路了。
所有的人都被B-29追赶着逃到了车站后面的田地里。
不知什么时候,我失去了宝贝妹妹和弟弟的踪影。
轰炸继续无情地进行着,经过车站,打到了田间地头。
我们现在不要逃避了。
虽然很危险,但我知道跑多远都无所谓,所以我蜷缩在站台上的行李中。
在车站,一名站务员用竹竿缠着绳子熟练地扑灭了一场飞火。 (这里的训练是活生生的)。
当我停止逃跑后,我可以清楚地看到周围的环境。
车站前的政府大楼着火了,但与罐头厂相邻的东洋饼干厂却烧得如火如荼。
那火苗呼之欲出,很快就变成了一个漩涡,然后又变成了龙卷风,火星四溅,升腾起几十米高的火柱。 它吞噬了周围的一切。・・・・・・。
转眼向松原町望去,只见和田弘的大楼,工厂正在积极燃烧。 稻田中间,临着路的房子着火了,就像一条火龙扭动着身子,喷着火。 芥川龙之介的《蛛丝》中的地狱一定是这样的。
B29的进攻终于结束了。
我意识到,我不能一直穿着湿衬衫和裤子。 当然,没有换衣服。
在站前政府大楼的火苗上,我挽起胳膊张开双腿干了起来。
大约在那个时候,东方的天空终于开始发白,逃到田间地头的人们都围在火堆旁。 他们在谈论空袭有多可怕。・・・・・・。
我惊恐地听到一些故事,说有的尸体的头被直接打爆,有的母亲抱着死去的婴儿发疯。
空袭之夜就这样结束了。
(2)
青森空袭的夜晚,天亮了。
桥本小学是我的母校,也是我工作过的学校,我很想知道发生了什么,所以我决定回去。 现在我和同事们分开了,我没有余力去想别人都在做什么,于是我拿着水桶去了桥本小学。
车站前,烧毁的楼房已经倒塌,露出一堆残骸。 再也没有一栋建筑挡住我的视线,我可以一直看到大海。 青森市已经成为被烧毁的建筑物的墓地。
桥本小学已经奄奄一息了。 旗台被烧成了一根根火柱,教学楼前的框架柱子也即将倒塌,燃烧起了红色的火焰。
‘你活到了很晚吧?
在桥上,我们可以更清晰地看到烧田的景象。 从桥上,我可以更清晰地看到被烧毁的田地,以及一栋在大火中幸存的房子。
我不知道他们在哪里,我匆匆赶路。 过了坂江町,一下子开到了松森通(花园2丁目)。 我看到一个绿色的铁皮屋顶。 一定是我家的屋顶。 我兴奋地跑了过去。 但我停了下来,顿时惊呆了。 绿色的铁皮屋顶就是我们土豆地另一边的房子。 最后,我们的土豆地起到了防火作用,阻止了火势的蔓延。 (此后,我们继续住在一间铁皮屋和一间完好的房子里对峙。
男师范学校和天理楼被毁,但乳白色的三层楼房–南和田小学却依然雄伟如初。
我的父亲和母亲都很安全。 弟弟为了家人的安危,四处奔走询问。
当他听说大家都平安无事的时候,就把埋在地下的酒拿出来,我们用大米拌黄豆为一家人的平安而欢欣鼓舞。
然而,这一战我们输得很惨。
小学同学横山惠子被烧死在防空洞里。 我的老师成田老师也死在同一个避难所里。 她在那里和镇上的人在一起。・・・・・・。
我的青梅竹马藤田丰子在空袭后被炸死了。
当我在空袭的黎明时分看到蓝天下美丽的哈口达山时,我深深地感受到了一种 “活着 “的感觉。
在结束我的证词时,我要回顾这次空袭,并为那些死者的灵魂祈祷。
下一代人见证集》第七辑